最強アリアドネ・1
背中に見覚えがあった。
老大家の学部長就任祝いのパーティ、なんて大仰に横浜のホテルで
やっても、帝国とかオークラじゃないわけね、てな不満顔の女達ゾロ
ゾロじゃ士気どころか品位もさがるってもの。派手好き面喰い親父の
誉れ高く、本日の顔ぶれは学問実績より、顔とタレント性が優位とは
――まったく期待を裏切らないヤツ。
あたしとしても、恩師が主役の同期というしょーもないつながりだ
けなら来るはずなかったが、「あ、祥子ちゃん、連れてきてよ。あの
子、毛色変わってるから楽しいじゃない」などという情けなくなるよ
うなお誘いが直々あったとなれば、うちのセンセのカオつぶすわけに
はいかない。しかし――
何がしょーこちゃんだ!
何があの子だ!!
あたしゃ今年30なんだよお!!貧乏学者まっしぐらのよお!!
というわけで、一応にこやかに御挨拶と御祝いを述べたあと、あた
しは、愛する喜久屋のパンを使ってるとわかったカナッペとサンドイ
ッチで、いい酒ちょろちょろ味見していたのだ。こういう時は自分の
”恵まれた体格”をありがたく思う。 173cmの長身で、こういう時用
のバーガンディワインの色のシルクのアオザイに身を包んだあたしに
は、早々セクハラをしかけてくる奴もいないし、あたしの食べっぷり
飲みっぷりは宴会サポートの方々にはすごくウケがいい。三日分くら
い美味を味わえば、来週いっぱい野菜いためで暮らしてもいいや。
そんな時、目にした。バーカウンターによりかかり、身体をねじっ
てこちらを向いた背中。
広くて形のいい――深いチャコール・グレイのスーツの背中。
「義明?」
ぴくと反応し、こちらを向く。栗色の髪の下、瞳に光が跳ねて琥珀
色。
「やあねぇ、相変わらず嫌味ったらしいぐらい男前」
教授や今日の主役が聞いたら驚くかも、の声。この男の前では、
あたしも女やってもいいや、って気になる。
相手もそれを受けとめた。”危険クラス”の笑顔になる。うふ、察
・ ・
しのいいとこも日常の男達とは段ちがい。パーティという空気に合わ
・ ・ ・ ・
せた場の着こなしってものをできる男なのだ。
「久しぶりだね、祥子」
「んん、いい声ねー、もちょっと聞きたい」
彼に向きあう形でカウンターに肘をあずける。んー、いい角度だ。
いわゆる”デカい女”に属するあたしとしては、185 こえてるってだ
けで、相手にありがとうって言いたいし、その長身に怜悧で端正な美
形のマスクがついてりゃ、眼福 眼福って気分。
「とりあえず何か頼めば?神山さんが腕のふるいどころがなくて退
屈してる」
「え、神山さんが来て…あら」
バーテン氏が整えたおヒゲの口元で笑った。
「あら〜何で根城から出てんの〜。23階はどしたの〜?」
「松井君が来るはずだったんですがね、今朝、山下公園の脇で当て
逃げされちゃって。頭打っちゃったので念のため病院留めなんですよ」
代理、見つからなくて、と苦笑する彼も声がいい。幸せだ。
「じゃ、マティニね、義明は何やってるの?」
丁度グラスをあけた角度で彼はこちらを見た。上向いた顎と喉のラ
インがいい。この男はこういう決めどころをいくつも持っている。
「ヴァランタイン」
「へー」
色合はダブルだ。あたしはちょっと観察モードに入る。…ん、すさ
みモードが底にある。僧侶の資格持ってて、兄貴の会社の仕事手伝っ
てて、宗教学から宗教美術――今日はそれで声かけられたんだろう、
主役は男だって整ってるのが好きなのだ――の論文でもちょっとした
注目株で、28才にしちゃ、妙に落ち着いてて世慣れた男。…なんだが、
かお
時々、ひどくうつろな表情をする。
「聖音はどう?」
「それも相変わらず。妙なハクついたカビくさい名門女子大じゃ教
授部屋の空気なんてよどんでるわよ」
「修道会の研究者は来るんだろう?」
「ああ、うん、彼らは確かに息抜きになるわ。でも最長2年じゃな
い、こっちにいんの。土台からゆさぶるには至らないな」
す、と置かれたグラスを取って、あたしは神山さんに礼を言う。一
口、味をみたところで、
「あたしにもマティーニ下さい」
背中で、ちょっと”キン”とした声。響きが気になって、ちらと肩
ごしに見やると、赤いドレスの女の子がいる。いや、女の子でもない
・
のかな、こんなとこに来てんだし。あああ、自分より下ならみんな子
じゃ、じぃ様連を笑えなーい。軽いソバージュの入ったショートはオ
レンジブラウン、片側にレインボーラメ。今年流行のオレンジピンク
のアイメークは、びっくりしたような目を強調しすぎて、かえって子
供っぽく見えるようだけど、どっちにしても20才そこそこ?じーさま
たち、般教も終わってないような子まで招んだの?いや、しかし…ひ
ょっとしてトゲトゲ光線出てる?あたしは、義明に目顔で尋ねたが、
彼はやたらに優しく ん? という顔をしてよこし――あたしは振ら
れた役を理解した。
しょーがない、つきあったげる。
ゆっくりと彼に顔を近づける。ちょっと上体にひねりを入れて――
こうすると、蛇身の女神みたいだ、と言ったのは他でもないこの男だ
――ちら、と視線をトゲトゲ光線の源へ投げて、幾分おとっときを混
ぜた声で、
「どなた?」
義明が目を伏せて、はっきり笑う。
「伊部先生のお嬢さん」
とろりと甘いくせに、彼女の名前さえ言わないところにしっかり突
きはなしのある口調。悪党。
ああ、でも図式は読めた。伊部センセにその意図があったかどうか
はともかく、その縁で、この男に出会っちゃったのか、お嬢ちゃんは。
やめとけ、こんな男。
つかまえようなんて思っただけで、毒にあたるよ。おまけに今夜は
はっきりすさみ模様。
あたしはむしろ嫌いじゃないけどね、そんな時のこいつ。
よっしゃ、引き受けましょう、世の平和のために。ひいては、東河
大学と聖音女子大のじぃ様(少しはばあ様もいる)方の平和のために。
「義明、この前のコロンバン会の送付してきた写本、見た?」
およそ甘い口調とそぐわない単語で、彼を誘う。
「いや実家の方が忙しくてね。小田切教授はどう言ってた?オリヴェ
イラ説の反証は出たかい?」
んん、甘ったるいじゃん、存分に。察しのいい男は好きさ。
あたしはマティニをほした。
「神山さん、相変わらずサイコー!」
サムズアップとウィンクにベテランバーテン氏も応じてくれる。
「レポートの下案あるわよ、見る?」
ゆらりとカウンターを離れる。深紅のシルクのスリットから、たっ
ぷりボディラインを見せつけて。水泳、続けといてよかった。
「是非」
おお、腕さしだすか、そこで。こりゃ、今晩でケリつけときたいっ
てことね、”お嬢さん”に。よっしゃ。
あたしは、赤面をとおりこして、白っぽい顔になった赤いドレスの
・
女の子にちらりと流し目をくれて、目一杯愛想よく微笑んだ。だめだ
よー、Bカップの身でそんなに胸元あけちゃー。痛々しくて、逆効果。
じゃあね。
「で、本当にあるんだけどさ、どうする、見る?」
エレベーターの前に来てそう言うと、相手は目を丸くした。
「こんな席に?どこに置いてあるの?」
「地下。あたし、だから車で来たんだよ。小田切ちゃん、フロッピー
で受けとってくれないから、プリントアウトして」
義明は、煙草を出し、それから迷うしぐさを見せた。
「アルコール入れてたじゃないか」
「いや、だから、もう置いてっちゃう気だったし」
「ああ、祥子、横浜だったな」
彼は、パーラメントの箱をつきだし、深く笑った。
「車で見せてくれるなら、今、火をつけるし、他の場所で見せてくれ
るというのなら、しばらくがまんする。どちら?」
あたしも微笑む。
「折角の正装で、自分のアパートってのも淋しいな」
「じゃあ、出ようか。さすがにここは嫌だろ?」
はい。
義明は、煙草をしまい、携帯をとりだした。物慣れた調子で呼びだし
たのは、ニューグランド。ふふーん、セオリーどおり。でもあそこのホ
テルはいいよね、”老舗”の看板の意味を知るってカンジで。
「近いから徒歩で、いいかい?」
「OK…ってレポート!!一応見るでしょ、ホントに」
義明はまた微笑む。でも――目の底に何かある。もがくようなもの。
・ ・
この男に魅かれて――でも惚れられないのはこれのせい。この男が何か
――誰かに心を喰われてしまってるのが、わかるから。
「…持つよ」
エレベーターが開いた。B2のボタンを押した手が、腰へ回ってくる
かお
のを、あたしは困ったヤツ、という表情で受けとめた。
世の平和のためにね。