『テリトリーの主張』における一考察
古びた学術書の間に、これも古びた、しかし可愛らしい挿画を表紙にした正方形の薄い
本を見つけた。
陽気な不良少年のまま、年を重ねたと聞く詩人の詞に後の世代にあたる絵描きが、柔ら
かい色調の絵を添えた詩画集だった。
鹿原神父様の人となりを思えば、棚にあってもおかしくはないが、と開いてみる。
『色エンピツで絵を書く
猫を書く
犬を書く
花を書く
壷を書く 』 ――サトウハチロー「色エンピツで絵を書く」より
んなぁ、という声に、ふと庭の方へ目をやる。開いていた広縁の向こうのガラス戸の間
から、首を差し入れて呼ぶ大きな猫の顔を見て――自分が声を出して、その詩を読んでい
たと気付く。
「聞いてたのか?」
書斎を立って出て、広縁に腰をかけると、沓脱ぎ石に置いた足の上をゆるく二度踏んで
回って、大猫は膝へあがってきた。なぁ、なあぁと甘えた声を出しながら、腕に額をこす
りつけてくる。
「…また重くなったか? …タビじいさま」
相当な年齢のはずだが、まだ成長するとなると…。猫またになれる日が来るかもしれな
い。名前の由来の白い足先が、持ったままだった本をとん、と叩いた。
「…読め?」
そうだ、というようにもう一度。
まさか、と思いつつも、ぱらりと頁を繰る。
初秋の午後は、良い風と優しくなった光に彩られて心地良いが、人恋しくもなる。
けれど誰よりも会いたいひとは、今頃必死で小論文の作成中だ。東河大の特別奨学生は、
ことあるごとにその人生への熱意を試される。
夏休みも、世間の一般学生ほどには自由がなくて、思ったほどには一緒にいられなくて
――身体の空く日の続く時を見計らって、帰省もしなければならなかったから――あのひ
とは時おりひどく不機嫌で。でもそんな自分を恥ずかしく思って、ことさらなんでもない
という顔をする。その意地っ張りを放っておくのと突き崩すのと――この配分がなかなか
むずかしい。
本当の心の底の欲望を全て解き放つことは、いささか破滅的でもあるし。
『ただひとつおぼえているのは
むかしの雨は 雨は 雨は美しかった
むかしの涙も同じように 同じように』
――サトウハチロー「ただひとつ雨だけは」より
猫に乞われるままに声にしていた詞が、ふと意味を持つ。
雨は美しくはなかった。
涙も――ああ、だが、あのひとの涙は美しかった。いつも美しかった。
あのひとがいるから、、美しいと思えるものがあった。
猫がぴくりと耳を立てたので、は、と五感を現実へ引き戻した。
母屋の側の庭に、あのひとがたたずんでいた。
立とうとしたが―― 一体どのぐらい時間が経っていたのやら、腿がじん、としていた。
そして老猫にその気がないのを、無理に下ろすわけにもいかず…。と、あのひとは唇をき
ゅっと引き結んで、ずんずんと大股に近づいてきた。
いつもの半そでTシャツにジーンズ。もう秋風の頃なんだから、上着をそろそろ、と思
って見上げるが…。
「猫に詩を読んでやんのか、おまえは?」
驚いた。
手離しで不機嫌だ。
「お望みなら、あなたにも読みますが?」
全開で不機嫌だ。
あのひとはゆっくり本を取りあげ、ひゅん、とフリスビーの要領で奥へ投げた。
妙な気迫に押されて、とがめる言葉が出せない。
あのひとはまたゆっくりと身をかがめると、タビと目を合わせた。
「文学の時間は終ったぞ、じいさん」
低く低く低く。
タビは耳をまたぴくりと動かし――しばらく彼らは見合っていたが、ふるりと猫が身を
起こして、ゆるん、とすんと芝へ下りた。ふやっと黒い長いしっぽが宙をないでから天を
指して、黒猫は悠然と歩み去った。
あのひとは立ち上がって腕を組んだ。傲然と。
うーん、不機嫌だ。
ちらりと見下し目。
「あいつのノミ取り首輪、まだ効いてんだろな」
ちょっとまばたきしてしまった。
「…小論文は…」
とてもまずかった。
あのひとの唇の左端が、きり、と上がって、惚れ惚れするような凶悪な笑顔が出現する。
「かたづけたに決まってる」
バッシューを脱ぎ散らした足は素足で。
ぐいと左腕を引かれて、血の通い始めた過敏状態の腿のことなど口にできるはずもなく、
こらえて立ち上がり、ガラス戸を閉じた。
「オレは詩なんて聞きたくないからな」
からんでくる舌先の甘さと――とがった言葉。
むずかしいひとだ。
しかしまあ――。
「…嬉しいですよ」
正直以上の勝ち札はない。
「会いたかった」
ひきよせる腕も身体も熱くて――。
これはこれで同等の切り札。
読みとれ、
ウタ
血流の中の生きた詞を。
了('03・6・9)
あとがき?
サンリオの昔の詩画集「サトウハチロ
−・オレンヂ色のコマ」(小椋佳・編、葉
祥明・絵)を入手して、思いついた情景で
した。引用はこの本からさせて頂いていま
す。
タイトルは一見エラソーで実は意味のな
い――学生の小論文もどきの題名の、更にも
どきです。バカそうなところが、本人、気に
入りました。
…サンカクカンケイにも気付かず、のん
きに「朗読する座椅子」をやってる直江が、
たいへん、…おマヌケさんですな。
東河大の特別奨学生の一年生はとーてー
も忙しくて、なかなか思ったような(思っ
た? 高耶さんが? くす♪)らっぶらぶ
な生活にはならないのだった。三年になれ
ば寮は出られる、頑張れ高耶さん!