文月の琥珀
1.訪れた声
『真知はファザコンならぬ”オジコン”だもんな――!』
庭で更に大きくなる弟たちのはしゃぎ声に気をとられかけていた真知は、
え、え!?と電話に注意を戻した。
「なによう朋ちゃん、その言い草ぁ〜〜。」
朋乃の声が含み笑いをわざとらしく奏でる。
『高1にもなって”明おじさ〜んv”もないもんだ、って言ってんの――!』
「きー!何よ、よけーな御世話!」
回り廊下まで子機を持ってきているので、いささか交信状態が悪い。
祖父母、叔父義弘夫婦、そして父の末弟義明叔父の住む、こちらの家は
昔ながらの日本家屋で、真夏ともなると、全てのふすまをあけはなってい
るので、普通の家より直線距離をとれるのだが。と、庭から犬の浮かれ声
がひと際大きく響いた。
『え、なーに、あんたんちの次郎丸――?』
「富有丸、だよ。朋ちゃん」
まったくこの子は…と真知がこめかみをひくつかせるのを見すかしたよ
うに相手が笑う。
『やー、ごめんごめん。柿の名前だったな、って思うと、ごっちゃにね』
「いっつもいっつも飽きもせず…」
真知がうなる。が、気を取り直し、会話をつなぐ。
「富有丸とバロンを、弟達と…叔父が洗ってんの。庭で」
『へっへー”義明おぢちゃん”ね』
「…切るよ、朋ちゃん」
『わー、ごめんっ!謝るっ!謝るから、明日の時間決めよう〜』
試験休みの二日目を宇都宮市内のアニメグッズの店につきあうことに納
得してやりながら、真知の目は庭のビニールプールでの大騒ぎを見つめて
いる。紀州犬の富有丸とシェパードのバロン。そして真知の弟、照生と弘樹。
海パンではしゃぐ彼等の中心に、丈高い男がすっと立っていて、笑って
いた。汚れたTシャツとハーフ丈の綿パンツは、もうびしょぬれで、いつも
きちんと櫛目をとおしている髪も今は額に落ちている。
――いつから…
いつからあんなに――くもりのない本当の笑顔になったんだろう。真知
は喜ぼうとしながら、できない自分をもて余しつつ、電話を切った。
この一年の義明叔父の変化…と、夏の庭に目をすえたまま、真知は記憶
をたぐる。彼の思いつめたような瞳、度重なる長期の不在、大けが…。
いっとき、重荷をおろしたようなふわりとした笑みを浮かべた時期もあ
った。――でも、それは束の間。冷たく暗く――もはや家族がいることさ
え、忘れたかのような険しい横顔で彼方を見つめていた夜を真知は覚えて
いる。
それが…。
広島で、いまだ真相の明らかにならないあの天変地異が起きた時、義明
叔父の消息も途絶えた。広島港に放置されていた彼の車が最後の足跡だっ
た。
祖父母、父、そして義弘叔父の目に、真知はおそれていたものを見いだ
した。
ついに――”死”が義明叔父をとらえたのか。
そう思いつつ、必死で否定する苦しさを。
少年期、叔父が死に魅入られ、ひきずりこまれるのを繰り返していたこ
とを真知はいつの頃からか知っていた。さまざまな見えないものを見、そ
れに働きかける力を持って生まれた事が、叔父に平安を与えず、ゆるがせ
続けていると、父や祖父達が案じていたことも。
だが、彼女が物心つく頃には、叔父はそれらを一応抑えつけ、克服した
かのように見せていた。
いつも優しくて思いやりがあって―――
―――ハンサムでね
”オジコン”かあ…と、友人のからかいを真知は口の中でくり返す。
その事件から二ヵ月後だった。広島の病院から叔父が電話をよこしたのは。
そして戻ってきた義明叔父は――変っていた。
不意に背後のたたみの上に置きっぱなしにしていた子機が鳴った。ひろい
あげて真知は、友人が営業用の声と、ひやかすトーンで応じた。
「はい、橘でございます」
わずかに間があって、ぐっと顎をひいた、という気配の匂う若い男の声が
した。
『オウギ、と言います。…義明さんは御在宅ですか?』
扇…?と真知は漢字を思い浮かべた。
「お…義明ですか?少々お待ち下さいませ」
電話の応対へのしつけは叩きこまれていながら、なぜ即座に保留ボタンを
押さなかったのかは、真知にもよくわからなかった。広縁に一歩踏み出すと、
子機からざあっと雑音が響いた。あわてて腕を遥か彼方の親機に少しでも近
づけようと引いた。
「叔父さーん!」
富有丸に顔をなめ回されていた叔父が目を上げ、中腰から身をおこす。
「オウギさんて方」
叔父は、ばっと首を振り、濡れた髪からしずくをはじいた。そのまま数歩
で庭を横切って、屋内に引いていた真知の手から電話をとった。
「もしもし、も…」
「だめだってば!」
耳を襲った雑音に義明がうっと顔をしかめる。真知は、あああ、とわめき
ながら、叔父の左肩をぐいっとひっぱった。
「限界!ここじゃ!」
びしょぬれのまま、義明が家にあがり、親機の方へと大股に進んだ。
「もしもし?!タカヤさん?」
叔父の通ったあとに残る水の粒に目を白黒させながらも、真知の耳はその
名前を記憶する。
――タカヤ…?
「ああ…よかった」
笑いながら小さく息をつく叔父の気配を背でとらえながら、真知は洗面所
へむかった。
「いや、ちょっと庭に出ていたもので」
真知は洗面所のクローゼットをあける。
「今の…?あ、姪ですよ、あぁ…」
淡い緑のバスタオルに真知は手を伸ばす。
「そう、義姉に似てきましたからね、ここのところ」
やさしく落着いた深い声――。真知は廊下の壁によりかかるようにして話
し続ける叔父の肩にタオルをかけた。瞳がすぅっと笑って礼を伝える。
「大丈夫ですか、23日。…そう、よかった」
ぬれた髪をぬぐいながら、不思議な甘さをたたえて――叔父は話し続ける。
「あなたさえよければ時間も…ええ、法事が入りはじめると不在も多いし、
携帯も切っている時の方が」
真知は縁側に立ち、弟達に仕事の続行を命じた。
――オウギ…タカヤ…?
――『誰?今の人』
すっと聞けばいい。電話が終わったら…。傾きへと向かいはじめた午後の
陽を見上げ、真知は目を細めた。背中全体で叔父の声をとらえ続けるかわり
に。
――『今の人、誰?』
なにげなく、さりげなく、当り前の好奇心をふりむく顔にのせて。こうし
て、うなじを緊張させて柔らかい声をきき続けるかわりに。
「東京駅だと、車が…」
ゆるやかに、おだやかに、言葉を慈しむように。ごく普通の事しか口にし
てないのに。
「ああ、そう…。そちらの駅なら、あなたも知っていますね」
真知の心がふとそれる。
――何かにあった…こういうの
そう…。
”人への酔いを宿した声…”
「じゃ、五時に。ええ、南口…人工滝があって涼しいので、そこ…え?」
低く笑う気配。
「それ以上早く、なんて言ったら、ミヤさんに恨まれてしまいますからね」
――義明叔父さん…
真知は唇の内側をきゅっとかんだ。
――『そのひと…だれ…?』
「ねーちゃんっ!!」
真知はびくん、と庭へ目を戻した。弘樹が目の前に来ていた。
「ターオルっ!!ふゆとバロンと俺のっ!!」
「ヒロっ!!てめー、俺のはよっ!!」
照生が目を三角にして振向いたが、同時にぶわしゅっとくしゃみをした。
「うげ…!ねーちゃんっ!真知っ!!てぃっしゅくれーっ!!」
「やだ…てるっ!!手でふくのは、なしよっ!!」
室内にとって返そうとする真知の脇を、大きな身体がすりぬける。
「照生!」
回り縁に立った叔父の手から小さなティッシュのパックが飛び、照生が両
手で受けとめる。
「多謝ねー!」
くすと笑い、義明はタオルを幾枚か抱えて、庭へ降りた。弘樹がぼふっと
そのタオルにぶつかっていく。
「さあ」
叔父の大きな手が、彼によく似た髪質の弘樹の頭をぽんと叩いた。
「ふいて。少し休んだら、ブラッシングだ」
犬達の彼への甘い声、まつわりつく弟達。真知は声をかけそこねた。
――『義明叔父さん、
・ ・ ・ ・
そのひとは――だれ?』