文月の琥珀
4.そして聞くことはない声
倉石とは新宿で別れた。
K駅についたのは――四時十五分。
南口へと高架を渡って、真知と雄登は改札口をすりぬけた。モザイクタイル
の広場、都内にしては、一瞬視界が無防備に空へ奪われてしまいそうな――。
「風――に水の匂いが…」
「動物か、お前」
真知のつぶやきにそっけなく応じつつ、雄登も大きく息を吸う。
「ま、海…ってか河口ってかが、近いんかな。で…?」
その促しで真知も我に返った。
「え…ええっと、あの…人工滝が…」
言いかけた時、真知ははっとして、今、自分達を追い抜いていった若者を見
つめた。
いや――目をとらえられた、が正しい。
・ ・
口を開きかけていた雄登もまたそうなったことを真知は気配で感じた。
白い半袖のシャツ。程よくはきこまれたジーンズにバスケットシューズ。そ
れだけなら、さっき別れた倉石や雄登、そして真知自身とおんなじだ。紺に白
いラインのスポーツバックを左肩に、広場左手の幅十メートルほど、高さは二
メートル半といったぐらいの人工滝へと向って歩いていく若者は、呆れるほど
普通の格好をしている。なのに――
さらりとした手触りさえわかってしまいそうな黒い髪をゆらした風が立ち止
まった二人に届く。背は――雄登より少し高い。彼は滝の水を受けとめ続ける
小さな池のふちにバッグを置くと、水の壁にむかってひとつ大きく伸びをした。
そして、くるりと振向いた。
一瞬、まともに目が合った。真知の目と若者の目とが
琥珀の炎だ――
”燃やすなんてできない”
もらったものを。――に、もらったものを。
でも彼なら。この人なら…。
炎に投じる。惜し気もなく。
『そして激しく もっと美しい炎…』
『高貴な、とどめてはおけないような気高さに満ちた香り』
「あれは…」
雄登のつぶやきが、真知の緊張を解く。はっとして、彼女は従兄の腕をつか
むと、ずんずんと駅前の繁華街にむかって歩きだした。
安物の推理ドラマみたいだ。
駅前の小さな広場を見おろす正面ビル、2階の喫茶店。今どき珍しくなった
「純喫茶」、その窓際に陣取って。メニューを見た時だけ、言葉を発して。
「え、と、俺…スペシャル・ヴィンナ・アイスコーヒー」
ちょっとの間、真知も現実に立ち帰る。
「え゛?あがる時、見本あったよ。汚れたソフトクリームみたいなのがのっ
かったビールジョッキ入りコーヒーみたいなの…。あれ?」
「間がもつだろ」
雄登は、ちらりとまた腕時計を見やった。
「…あと四十分もあるんだ」
真知はぴくり、とメニューを閉じる手を止めた。
「…そんなに…かからないよ、多分」
ゆっくりとほこりっぽいレースのカーテンの向うへ目をやる従妹に、雄登は
え?と首をかしげた。
「どうして…五時まで…。あ」
広場からあの人工池へと目線をずらそうとしていた真知は
「そうだな」
と、不意に肯定に転じた雄登の言葉に振向いた。彼は、左手を顎にあて、す
でに外を見つめていた。
――雄登…?
真知もまたゆっくりと目を転じた。モザイク広場のところどころの白が陽を
はじいてまぶしい。それでも、あの水の匂いのする風が駆けぬけているせいだ
ろう。行きかう人々の夏服のすがしさと相まって、さわやかな夏の夕へと時が
移ろうとしている。
その中で――。
彼は坐っている。気負った風もなく…といって、ただくつろいでいるという
のでもなく。小麦色の前腕でひきあげた右ひざを抱き、あの瞳で――空を見つ
めている。
琥珀を灼く瞳で。
誰かを待っている。
溶けこんでいるように見えて――絶対に呑まれない、埋もれない。
例え、どんな時が彼の上を流れても。人波に沈んで見失うことなどないだろ
う。
――なぜ、そう思うの?
次第に早く強くなる血の脈動。耳の中のそれが熱を持ち、眉間を圧する。真
知は見つめ続ける。
――思う、んじゃない。わかっているんだ。――知ってるもの。
彼のまとう空気、ふと優しげに右ひざの上の腕に頬をあて安らっている彼の
放つ波動。それと同じものを持っている人を。
少し距離はあるが、真知は細部まで見ることができる。整った顔立ちの中で
閉じていく瞳、ひきしめられてはいるが、緊張はしていない唇。誰かを待って
いる若者。多分、真知達より一、二才上、それ以上ということはないだろう。
――でも、あの瞳には…なにか…。
もっとちがったものが…と真知が口元にあてていた親指の爪をかんだ時、若
者が自分の腕時計をのぞきこんだ。脚をおろし、駅舎に目をむけた彼は、そち
らにかかっている時計をも確かめたのだろう。正面に向き直った彼が、ふ、と
笑ったのに真知は目を見張った。照れくさそうな微笑のまま、彼は再び空を仰
ぐ。
――四時三十五分。
真知は神託をもたらす者のように厳かに心の中でつぶやく。
――もし、あたしがまちがえていなければ――。
・ ・ ・
早く着きすぎた自分を苦笑しているあなたが、その人なら――。
あなたの待つ人はもうすぐ現れる。
”自分を待つ”不安をどんな相手にも抱かせたくない人だから。
どんな相手でも”自分が待つ”ことを選ぶ人だから、定刻より早く来る。
でもあなたは…。
真知は手を口元からおろした。
――そんなこと、とっくに知ってるんでしょう…?
向いの雄登が身じろぎしたので、真知は、はっと従兄に目をやった。
「来たよ」
真下を見つめる雄登の目線の先、白いシャツにおおわれた広い背中が、モザ
イク広場の端からゆっくり人工滝へと近づいていく。
真知は唇の内側をかみしめた。若者が顔をあげる。変化はごくわずかだ。で
も――まっすぐにその人を見つめている。立ち上ることもなく、まして――手
を振るなんてこともせず。でも――。
その人が彼の前に立ち、向き合った時、ちらりと横顔が見えた。
声と同じ、優しい――深い笑顔。脱いだ上着を抱え、彼は微笑む。
義明叔父と若者との間でほんの一言か二言、言葉が行きかった。立ち上る若
者の手から、叔父がバッグを受け取ろうと手をのべたが、彼は先ほどの照れの
混じった苦笑で、それをさえぎり、一歩先んじた。続く義明の顔には――。
「おい、真知!?」
不意に立ち上った真知に雄登はぎょっとした。そのまま、真知は出入口へと
歩き出す。
「真知っ!」
階段を一段一段、踏みしめるように降りながら、真知は唇をかみ続ける。最
後の段に立ったまま、そっと首を街路へとのぞかせる。右の少し先に、濃緑の
ウィンダムが止めてあり、丁度、二人がその近くへ立ち止まったところだった。
助手席側を先に開いた義明叔父が、あの若者の肩に手を置き促すのが見えた。
肩に力を入れてずんずんと歩いていく真知の背を見ながら、雄登は鼻を動
めかした。
――川が近い…。
突然、視界が開けた。オレンジ色を帯びつつある陽光が、水面にきらめき、
川ぞいの遊歩道を往く人々の声も宙へと広がり、すいこまれる。
――愛し気、と言うんだ。
遊歩道を、今は少し、歩調をゆるめて真知は歩く。
――彼を見てた義明叔父さんの目は…
ううん、と彼女は首をふった。胸がつまった。やるせなかった。
――そんな…かっこいい言い方より、もっとわかりやすい言葉…
好き、で…
真知はもう一度、かぶりを振る。
――好きで好きでたまらない、って言うんだ…!!
体がしびれそうだ。苦くて重くて…この、のどの奥の塊。
・ ・ ・
――わかってた!確かめに来たんだもの。あれが…あの声がそれだって!
叔父さんを変えたものだって!!
真知は立ち止まった。ぐうっと突き上げてくるものを、全身の力で押しつぶ
し、大きく息をついた。
「今、五時だぞ」
真知はゆっくり振向いた。雄登が二歩ほど離れたところで、ひらひらとダイ
バーズウォッチを振っている。
「ほんと、早く来るよな、叔父貴は…。いや、あいつの方が上手だったけど」
「雄登…」
真知はいぶかしげに従兄を見つめ直した。雄登は丸い目をくるりと動かした。
「あんな奴、早々いないからな。忘れやしない」
冬だったかなあ、と雄登は川へ向き直った。
「課題があったんで、横浜へ建物描きに行ったら…会ったんだ、義明叔父さ
んに。女子大生風の美人と一緒で…」
旧英国領事館の前だった。デート?と尋ねた彼に、叔父は疲れたように笑い、
二人だけじゃないと答えた。その時、今は資料館になった名建築から、二人の
若者が現れ、茶の皮ジャンを着た年下らしき方が、こちらへ目を向けた。
「…ぞくっと、来た」
雄登は首をすくめた。
「ガン付け、なんて生易しいもんじゃなかった。すくみあがって…逃げるこ
とさえ思いつかない。なんだ、これは、って…圧倒的な力が、壁になってぶつ
かってくるみたいな…」
「…琥珀を灼くのよ」
真知が低く起伏のない声で言った。
「…焼いてしまう人なんだ…」
雄登は目を見張った。不思議そうにつぶやく。コハク、って、と。
「王ヘンに…虎、か?」
「火の中で生き返るんだって…。それは美しくて――激しくて…」
真知はペンダントをぐっと左手で握った。
「とどめてはおけない――気高い香りがするんだって…」
「ふうん…」
雄登は手を額にかざし、とびかうかもめを目で追った。
「けど、今日はちがってた。あの時の殺気が嘘みたいに消えてて、でも…
真っ芯にある強いしっかりしたものが、もっとはっきり――」
「もういい」
真知はうつむいて低く言った。
「もう、あの人をほめないで」
雄登も淡く微笑する。
「心、せまーい…」
「せまいよっ」
真知はぐるっと踵を返して歩き出す。
「だって…」
――愛だとか恋だとか…そんなものじゃない、そんなものじゃ…。
ただ、あの澄んだ瞳の奥の悲しみを…わずかでも…。
「少しでも…何かさせてもらえたらって…。でも」
西の空が燃えはじめる。二人は川の流れにそって歩き続ける。
「一緒に暮らしてても――大事な家族でも…」
真知のつぶやきが、少し強くなった向かい風に巻かれる。
「駄目なもんは駄目」
細く長い両腕が、ふわりと風を抱くように広がった。雄登は逆光になった彼女
を目を細めて見つめた。
「あの人でなきゃ…駄目なんだろうね」
雄登はうなずき、それから背を向けている真知には、わからない、と口にし直
した。
「うん」
それっきり黙って、二人は歩き続けた。
川はゆるく広くなる。
やがて海へたどりつく。
夏の星が現れる。
真知は足を止めた。
――義明叔父さんも見てるだろうか
雄登が隣に並び、同じように空を見上げた。真知は、ふう、と息をついた。そ
して淡く微笑んだ。半べそになるのを抑えて。
――琥珀の炎の――目を持つ人と。
街に灯がともる。
住まう人々の想いを、道ゆく人々に投げかけるように。
七月二十三日の星空の下に。
あとがき
直江のなの字も出て来ません
もちろん景虎も出て来ません
闇戦国なんて言葉もありません。
これは15才の橘真知さん(ペンダント付き”苦笑!)のお話です。
真知さんと彼女の敬愛する叔父さん、従兄の雄登、そして、オウギタカヤの。
15才の女の子の揺れる心と”世界はそれでも回っている”な話なんですね。
これはミラージュにいくつかあるパラレルにそったものです。
”Bloody Moon”収録の「Birth」って、どういう時間軸にあるのかなと思ったのがきっかけ。
私は強引に19才のバースディに持っていっていますが、
本当の「Birth」は時間的には高ちゃんの20才の誕生日だと思われます。
初々しい(おっとっと”)けど初めてではないらしい…関係からして――
きっと「わだつみ〜」後編で謙信がもっとしっかり割り込んで
(もしかしたら氏康ぱぱと手を組んでv)
直ちゃんをすぐ高ちゃんに返してくれて、
二人は感涙とともに抱擁を…か。
んで、高ちゃんはマジでもう一回高2をやっている。
闇戦国はゆるゆる〜だらだら〜と続いてる〜。
でも直江と高耶さんは愛と信頼のタッグマッチ状態、とな?
(わ〜〜はずっかしっ”)
1998.1.4〜8