葉月の銀砂
1
「生ぬるい力だな」
相手のかざした掌の下に柔らかいぬくもりが漂い、彼の右腿の裂傷が、
少しずつ小さくなる。礼を言わなければ、と思ってはいたのに――出た
のは憎まれ口だ。
相手はわずかに口元をゆるめた。それだけだった。
この男、生前は暖かい笑顔の偉丈夫だったと言う。
しかし、今の彼はひょろりとした細く長い体の若者で、ひどく気配が
薄かった。
傾きかけた小さな山中のお堂の石段を一つ降りると、彼はゆっくり眼
下を示した。
「ごらんなさい、安田殿」
穏やかなゆったりとした物言いだった。
「もう桜の頃ですね」
「梅、桃、とくりゃ、そいつに決まってんだろう」
釣りこまれまい、と妙に意地を張って、安田長秀は言い返した。とげ
とげした口調を少し悔やんだが、相手の背には――そして再びかけられ
た言葉にも動揺はなかった。
「将はいなくなっても、あの乱世をたいらげた徳川の世が終わろうと
とき
している今も…季が来れば花は咲く…」
夕の風がゆるやかに山肌を上がってくる。向って立つ若者の衣の裾を
はためかせて。
「私達は何をしているんでしょうねぇ」
長秀はちらりと片眉をあげたが、相手の声に揶揄はない。ただ子供の
ように心底不思議がっている響きだった。
――俺達は何をしているんだろうな…
友の声を幾度も思い返し――問い返す。最初の換生の姿で、あるいは
別の姿で、そして――あの苦しみを抑えつけた気高い老女の姿で…、友
は微笑み、優しく問う。
今、長秀は、千秋修平と名乗る身体の中から、ただ同じ問いを投げ返
す。
ぐるぐると回りながら、熱を帯びてゆく”言葉”たち。
――熱い…。
いや痛みなのだ、とどこかで認識がひらめく。身体のどこかに痛みの
芯がある、と千秋の意識がつぶやく。どこなのだろう、と自らの感覚を
さぐるが、肉体は応えない。
――まずいよな…。
いつからか傷を負うことに鈍感になった。友はいつも言っていたのに。
自分の力は治癒力ではない。その者の力をわずかに増幅させるだけの
力でしかないのだから、身体を大事にしてくれと。
――しょせん借りもんだろーがよ。
嘲るように言う彼に、友は生真面目な顔で応える。
――それでも貴方の身体です。痛みは貴方のもので、確実に力をそぎ
ますよ。
決して声を荒げたことのない――だが、いつもまっすぐな声だった。
――…いかい…。
猪飼和道。千秋修平の身体の中から、長秀は低くその名を空へ放った。
夜叉を名乗るには、穏やかすぎる者だったが、まぎれもなく友だった
者の名を。