葉月の銀砂

 

 2-1

「なに…っ!?」

 飛び起きようとした千秋の右肩を、しっかりした手がとどめる。

「横になっていろ」

 眼鏡がなくても気配は間違うはずはない。この手、この声。

「…直江…?おい」

 その驚きからさめると同時に、千秋の身体からがくりと力が抜ける。

「れ…?ね…熱、出てるかぁ?」

 見慣れてきた頭上の蛍光灯のカバー。ここは松本の自分のアパート

だ、と確認する。

 汗でぐしょぐしょになった下着と寝具の混沌の傍らに、直江がいつ

もの黒いズボンの膝をそろえて正座していた。さすがにこの季節とあ

って上着は脱いでいたが、ネクタイはきちんと喉元を締めている。

「傷口から何か入ったんじゃないか?」

 直江が無造作に千秋の左腕をつかむ。

「上腕が腫れている」

「んなもん…」

 離せよ、ともぎはなしたものの、けだるくて言い返す方へ頭が動か

ない。

「なんでこんなとこにいる?無断で人の部屋に入ってよ」

 直江が片眉をあげた。

「ノックもしたし、声もかけた。もちろんその前にドアチャイムも

鳴らしたぞ」

 思念波でも呼んだ、とまで言われては、千秋に分はない。
       ワケ
「…入った理由はわかった、としといてやらあ。んでも何でここに。

景虎だろ?お前が松本くんだりまで来るっていやあさ」

 端正な顔にわずかにかげりが浮かぶ。それから苦笑がとってかわっ

た。

「お前の”声”が聞こえた」

 え、と熱に潤んだ目で、直江を見上げて、千秋はぐっと唇を結んだ。

「呼んでいたぞ」

 目で千秋は直江の言葉を封じようとした。だが相手はそれに抗った。

「猪飼は――」

「直江」

「浄化したんだろう?」

 千秋はごろりと背を向けた。直江は次ごうとしていた言葉を換えた。

「医者に行くか。消炎剤と抗生物質が要るだろう」

「いらねぇ」

 千秋の背中に貼りついたTシャツの汗のしみを見ながら、直江は、

ふう、と息をついた。その気配に反発したように、横たわった背が言

う。

「俺は勝つ。この程度なら――の助けがなくたって勝てる」

 くぐもった千秋の声に、着替えを探そうとしていた直江は目を戻し

た。

「勝つ…か、俺もお前もそのことから抜けられねぇ」

 直江の手がぴくりと動いた。

「晴家、色部のとっつぁんだってだ…。んで、もちろん――景虎も

だ」

 淡々と事実を並べる、といった風な千秋の声音に直江は目を伏せる。

「猪飼にはそれがなかった…。なんでだろうな、あいつだってこの

世に留まってたんだから、怨霊の一人だったんだろうに」

 質素なアパートの一室は、半分ひかれたカーテン、除湿中のエアコ

ンの音で、夏と隔絶した小さな牢獄のようだ。

「あいつは俺を呼んでない」

 不意に千秋の声に力がこもる。

「あいつは言った。どこまで行けるか試してみると。”力”のきま

ぐれで、瀕死の人間の最後のあがきを渡り歩くことになっても――

見ていたいんだって」

 熱のせいだ、こんなことを口走るのは…。

 千秋は体を這う、熱と汗の不快さにいらだちつつ、かぶりを振った。

「どうにも駄目だと思ったら、俺を呼ぶ。必ず呼ぶと言った。だか
           ・・
ら、あいつはまだここにいる」

 強く言い切る千秋の声に、既視感を覚えて直江はとまどった。

 ――あの人はどこかにいる。私が見つけるのを待っている。

 自分の声。

 ――約束を信じてる。慎太郎さんを。あたしは信じている。

 綾子の声。

(だが…長秀)

 硬い背を見つめて、直江は小さくかぶりを振った。

(呼ばれたくはないだろう?)

 もし猪飼がまだ浄化していないとしても、お前を呼ぶ時は、それは

 ――お前の力で自分を天に送ってほしい、そう願う時なのだから。

    

    

    back               next