葉月の銀砂
2-2
猪飼和道が新たな夜叉衆として現れたのは、彼等が幾度目の生を営ん
でいる時だったろう。
関ヶ原の浮遊霊に思わぬ不意打ちをくらって、弱った晴家の霊体を回
復させるには、胎児換生という方法しかない。
突然訪れた柔和そうな中年の商人がそう告げた時、景虎は心底不思議
そうに、その名を口にした。
「和道…?」
相手は淡く笑って、静かに膝をつき、深く頭を垂れた。
猪飼は謙信の守り役であり、忠臣でもあった宇佐美定勝の姪孫にあた
る若者だった。定勝死後、どことなく、かげりがちになったその一族を
思ってか、謙信は景虎の名を与えた養子の側仕えとして彼を置いた。三
才ばかり年長で、学問に秀でた静かな若者は、細やかな心持ちで若い主
に仕えはじめたが、その真価は発揮されずに終った。わずか三ヶ月で、
和道は病に倒れて急逝したのだ。
「浄化したものと思っていた」
和道は、主のそれには答えず、おなつかしゅうございます、とだけ
言った。
生前の景虎の側仕え、という彼の出現が、直江にどこかぎこちないも
のをもたらしたのは、時期的にも致し方ないものだったかもしれない。
が、そうした直江の心持ちを察したのかという作為も感じさせない自然
さで、猪飼は安田長秀とよく組むようになった。
彼には、どこか人の構えを解くところがあって、話し相手から本人も
気づいてなかったような鍵を拾ってくる。細やかな観察で地勢や気の流
れを読み、事の発端を感じとる。しかし、彼の”力”の最たるものは、
「増幅力」だった。戦いに、力に意義を感じる長秀の生き方を見てとっ
てから、彼の戦闘力にそれを貸すことは、ほとんどしなかったが、身体
の治癒力をも高める働きのできる猪飼の力は、夜叉衆にとって大きな支
えになった。
「見飽きることはないですよ」
猪飼は体が換っても、同じ微笑みを浮かべてよく言った。
「空も木々も虫も獣も…人も…」
いつも驚く、いつも美しい、いつも面白い――戦いに、生に、仲間が
時に傷つき、疲れても、彼はそう言った。
いくら生きても飽きることはない――と。
使命の名のもとに、他者の生を奪いとる罪を重ねても、この気持ちは
抑えられないと――。
それは臣下という立場にあるものの矯りだと、いつか直江は言ったこ
とがある。全ての責を負って立つ覚悟の者には言えないことだと。猪飼
は反論しなかった。
わかっていたのだった。猪飼が穏やかな言葉の後ろで静かに疲弊して
いたのを。そして――
それは恐ろしい形を取って現れた。
あの関東大震災の炎の中で――。
日本橋の役所の下級官吏の青年として、生を送っていた猪飼は、必死
で一人でも多くの生命を救おうと走っていた。
各地から集まった夜叉衆の仲間が、上野の山で火傷でボロボロになっ
た彼を見つけた時、その生命の火は消えかけていた。
悪夢が始まった。青年の息が絶えた時、少し離れたところで、これも
死に近づいていた少女が悲鳴をあげた。何事かと彼女をのぞきこんだ長
秀は、そこに友の驚愕のまなざしを見いだした。その場に横たわる死に
近づいている何百の人々――猪飼の魂は次に換生する先を選ぶ力を失い、
死の寸前にいる体、その痛みと絶望を次々にさすらった。
為す術はなかった。直江の持つ異端の力でさえ。
・ ・ ・ ・
持ち直す見込みのある宿体に無理にでも入れれば、と直江も景虎も
彼の魂を追ったが、周囲の絶望のうめきが猪飼をとらえ、離そうとしな
かった。
その夜で猪飼和道は、何百回死んだのだろう――。
すすけた桜の木の根方で、うつろな瞳をこちらへ向けた片脚の老女
――それが狂乱の夜が明けた時の猪飼和道の魂の容れ物になっていた。
衝撃から立ち直るまでの数日、それぞれが苦悶し、答えを捜した。
直江はもう一度、自らの力を本来の使命――景虎を護るため以外に行
使する許可を主に願い出、長秀も自失したかに見えた猪飼の心を奮い
たたせようとした。
だが、長い沈黙を破って猪飼が景虎に申し出たのは――。
「しばらくはお役にたてないでしょう」
けれど、他将に利用される値打ちもありません、と急ごしらえの粗末
な避難所の床で老婆は言った。
「夜叉衆としての勤めを果たせないのなら、あちらへ旅立つべきなの
でしょう。けれど――景虎様」
・ ・
老女は顔をあげた。屈強な青年の姿の主に彼女はあの笑みを投げかけ
た。
「私をしばらくこの世にいさせて下さいませんか?
もはや自分の意で宿る肉体――生命を選べない。
でもそれは本来の魂の往き方とどうちがうのでしょう…?」
ともにその場に在った長秀と直江も主と同じく言葉がなかった。
・ ・ ・ ・
「私が入るのではなく、逝きたくないと叫ぶ魂の絶望が、置いていか
れる器に私を呼びこむのなら――その執着が私に何かを為させたいのな
ら、考えてみたい。その何か、を」
景虎の瞳の奥に動いたものを、猪飼は見てとった。
「怨霊になどなりません」
老女はそっと景虎の手にしわだらけの細い手を乗せた。
・
「私がここに留まっていたのは、ただ見ていたかったからなのです。
季節の移ろい、水の流れ、変わる風…。それが生への未練だったという
なら…そうなのかもしれませんが」
老女は目を転じた。
「安田殿、来て下さいますよね」
今までになく厳しい声音だったが、老女は笑みを浮かべたまま言った。
「いつか私がこの生に飽くか、それとも知りたいと思っている”何か”
をつかんだ時、必ず貴方を呼びますから」
戯れ口は出てこなかった。
長秀はただ深くうなずいた。
それからの猪飼の、短く苦しいいくつかの生の断片を夜叉衆は静かに
見守っていたが、この国の世情が狂気を帯びはじめた頃、ふっつりと消
息が絶えた。そしてその捜索に手を裂く暇もない苦く哀しみに満ちた戦
いが、残された者達を容赦なく蹂躙していった。