葉月の銀砂
2-3
(――そして俺は)
なじみになった胸の奥の痛みに、直江は膝の上の拳を固めた。
(――歪むままに堕ちた…。何もかもを叩き壊して…あの人を失った…)
ふと目の前の千秋修平という名の若者になっている今の長秀の背を見
つめ直す。先日の奈良での彼と――仰木高耶との迷コンビぶりが思い出
されて、唇が笑った。当人達は大真面目だったのに、仔犬の喧嘩のよう
な健やかさ。
・ ・ ・
あの頃。
景虎と長秀の間にも冷たいものがあったという記憶さえうすれそうな
少年二人の戯れ合いに、時に巻きこまれ、時に仲裁に入って。闇戦国が
活性化しつつあるこの状況下で、あんなにも明るい空気が…。
(…仰木…高耶)
彼ゆえだ、と思う。闘気に満ちた眼をして、不用意に近づく者をはね
つけるのに、一旦その内側の柔らかい傷つきやすさを見せてしまった相
手には、不器用な、だが真情にあふれた笑みを投げかけてくる。傷つき
ながら、それを内への輝きに変えて育ってきた少年。
彼、になることが封じられた景虎の望みだったなら、忘れてくれたこ
とは、そのまま許しだと信じたい。
――このままじゃいけないのか…?
真剣に見つめてきた高耶の声が、胸の中で響きあう。
忘れたい過去だったのなら――ないままでいいだろう?と…。
(だが…)
この世に残らせてくれと猪飼に言わせたもの。
無様に生き残って、と嘲笑いながら、自分が死にきれなかった理由。
(真実、を)
本当のこと、から逃げられはしない。背を向け耳を塞いでも、いつか
は捕えられ、もっと痛手は深くなる。
「長秀」
沈む心を振り払うように、直江は目の前に横たわっている若者に声を
かけた。
「身体を拭いて、着替えた方がいい。シーツ類も換えよう。どこにあ
る?」
長秀=千秋がもにゃっと何か言った。
「何?」
「…マメ男、って言っただけだ」
千秋はだるそうに起き上がると、髪をうるさそうに背に押しやって、
壁際のビニールの衣装ケースを示した。
「あっこの下の方にタオルもシーツも入ってる。Tシャツとトランク
スは隣のかごん中…」
わかった、とうなずいて直江の長身がきびきびと動きだす。一旦、濡
れタオルを千秋に渡してシーツをくるりと替えている時、ふと彼はドア
を振り向いた。
人の気配、と室内の二人が無意識に構えた時、ドアチャイムが鳴った。
「千秋――?」
汗に濡れたTシャツを脱いでタオルを使っていた千秋は、お?と目を
丸くして、ドアをあけた。午後の陽光に逆光になった少年の姿。
「成田かよ、あ…」
「文化祭の打ち合せ、来るって言ったのに、どうし…。あ、そこの車
さあ…」
ドア口を一歩入った譲が、室内に目を慣らそうと、ぱちぱちとまばた
きをしてから明るく笑った。
「あ、ほんとに直江さんだ!高耶ってば、すごいな」
取り換えたシーツを手に立ち上った直江が、え、とキッチン脇の玄関
に一歩近づく。夏の外気にも負けず、制服のシャツを上のボタンまでき
ちんとかけた譲が、
「そこのレンタカー見るなり、『直江?』なんて言うからさ」
と、元気に言う。その二、三歩後方に、これも制服姿――ただし、ボ
タンは上三つ、はずされている――で、スポーツバッグを肩にした高耶
が立っていた。
直江が気づくより先に向けられていたらしいその視線をとらえて、彼
が笑いかけたとたん、ふっと瞳がそらされた。直江はいぶかしく思って
声をかけようとしたが、譲の驚きの声でさえぎられる。
「え、うそ、千秋、熱あんの?!」
同じく高耶の様子を注視していたらしい千秋は、譲のびっくり目に苦
笑しつつ、タオルを流しへ落した。
「目ぇ早いな、成田」
「え?風邪?あれ、じゃ、それで直江さんに来てもらったワケ?」
千秋と直江は、はあ?と譲の顔を見ていたので、目をそらした高耶の
肩がぴくりと揺れたのを見逃した。
「水くさいなあ、俺だって高耶だっているのに…」
「何言ってんだ、成田!お前、俺がいくつだと思ってんだ!わざわざ
宇都宮から保護者がわりを呼びつけて甘えるとでも!」
譲と千秋の妙にテンションの高い会話に、はあ、と額に手をあてて、
直江は高耶に目を戻した。
「こんにちは、高耶さん」
少年はわずかにためらったあと、目を合わせてきた。不安気に、と見
えて、直江が小さく首をかしげるその脇で、またまたあとの二人の会話
がパワーを上げる。
「だって実質の四百年て、今の体の年と関係ないんだからさ」
「だからって『直江〜、熱が出たよ〜!』とでも媚びんのか?
・ ・
この俺様が!?」
「ああ、もう!」
直江は耳をおさえて、千秋の肩をつかんで奥へ押しやった。
「着替えて寝ろ、長秀!とりあえず薬は都合してくるが、化膿の状態
では、切開も必要かもしれん!」
うえ、と嫌な顔をする千秋を見て、ようやく高耶が声を発した。
「…化膿…切開…って、じゃ、けがか何かが原因なのか、千秋」
直江は千秋の左上腕をつかんで、高耶の方へ向けた。
「奈良での傷の一つに雑菌が入ったようです。きちんと消毒しないか
ら…」
「ああ、うるさいぞー、説教男ー!」
かみつき返しながらも、千秋は高耶がわずかに頬の高いところを紅潮
させたのを見逃しはしなかった。少年の目に直江の長い指が映っている。
千秋の腕をつかんだ形をしている指――。
「薬って何が要るの?」
譲の声に高耶がひとつまばたく。直江は苦笑とともに、千秋を布団に
坐らせ、振り向いた。
「とりあえず、消炎剤と抗生剤が何種か」
「直江さん、わかるの?」
直江はうなずく。
「この程度なら知識があります」
「それなら俺んちで調達できるんじゃないかな。歯医者でも使う類で
しょう?」
再びうなずく直江に、譲は親指を立てて見せた。
「じゃ行こう!今日うち休みだから、好都合だよ!」
譲は親友を振り向いた。
「高耶は?」
「いや、オレは…」
高耶はバッグをあがり口に置いて、靴を脱ぎはじめた。
「千秋を見張っててやらあ」
「んだとお!?」
歯をむいたものの、物言いた気に向けられた直江の視線を一顧だにせ
ず部屋に入ってきた高耶の無表情に、千秋は内心溜息をついた。明るい
調子の譲の声がドアの向うへ遠ざかり、ややあって、車の発進音が聞え
た。
「熱…高いのか?」
千秋は直江の出しておいた新しいTシャツに袖を通しながら、ぼそりと
聞いてきた高耶と目を合せ、うなずいてみせる。
「はかっちゃいねーけどな。直江のダンナが説教したくなるぐらいは、
あるな」
高耶もうなずきはしたが、どこか上の空だった。
「直江が来てるって、すぐわかったんか?」
千秋はうすく笑って、膝の上に腕を乗せた。高耶は今度は、はっきりと
頬を赤くした。怒ったように言いながら、そっぽを向いてその場へ坐りこ
む。
「宇都宮ナンバーのレンタカーが、そう何台もこんなところにいるわけ
ないだろ」
「そりゃ、そーだな。ダンナ、セフィーロ駄目にしたんで、家の車、使
わせてもらえなかったんだろ」
千秋は頭の後ろに手を組むと、長々と布団に伸びた。
しばし沈黙が降りたあと、高耶が平坦な調子で言った。
「具合が悪くて――それで呼んだのか?…ほんとに?」
千秋の口元が小さく笑った。
「なんで行かなかったんだ?あの二人と」
高耶は目を見張った。千秋は右膝を立て、その上に乗せた左脚をふいふ
いと揺らした。
「なんで…って…」
思いがけずストレートに現れた惑いの表情に、千秋の方が面くらったの
も束の間、高耶はむっと唇をひん曲げた。
「オレが先に聞いたんだ!つまり直江、呼ばなきゃなんないほど、オレ
じゃ役に立たない…」
「ほう?」
千秋は嘲るようにさえぎった。
「で、俺が呼んで直江が来た?それで?!」
高耶がぐっと詰まるのを、千秋は小気味よさそうに見上げた。
・ ・ ・ ・ ・ ・
「仕事で、ならともかく、俺が、俺の都合で直江を呼ぶ。それでも直江
は来るのか?そう言いたいんだろう、お前は」
目を細める千秋から高耶はふてくされたように顔をそむけた。
「たーいしたもんだよ。だけどな、間違っても成田にあたるなよ」
びくっと向き直った高耶に千秋は笑みを消し、言いきかせるように人差
し指を突きつけた。
「あいつはお前の不機嫌を察して、ことさら”フレンドリー”に振舞っ
ただけだぞ。邪推すんじゃね…」
頭の脇で、ばっと立ち上られては、千秋も言葉を言い切れずに呑む。
「先、帰ったって、譲に言っといてくれ」
玄関で靴を履き、バッグを手にしても、千秋が何も言わないので、高耶
は弁解するような言葉を継いだ。
「…美弥に昼過ぎには帰るって言ったんだ」
背後から声はない。
あいつ、きっと昼喰わないで待ってるから…」
「わーったよ」
千秋のぶっきらぼうな答えに、高耶はちらっと振り返りかけたが、その
ままドアを押し開いた。
「…大人しく寝てろよ」
「へえへえ」
閉じたドアに、んべ、と舌を出して千秋はつぶやいた。
「四百年をゼロにして、初恋のしなおしか…」
ふが、と息をつく。
「情けなくって、ライバルやめたくなるぜ、まったくよォ…」
気が抜けたのか、身体がずん、と重くなる。
ふと――また友の声が心をよぎった。
――必ず、貴方を呼びますから。