葉月の銀砂
3
「はい…、あ!」
電話に出た美弥の声の明るさに、高耶はねぎを刻む手を止めた。
「はい、います。ちょっと待って下さーい!」
美弥が子機を手に台所へ首をつっこんできたのを横目で見て、高耶は首を
振った。
「え…?だって、直…」
「手がはなせねーんだよっ!」
美弥はちょっと上目づかいになって口をとがらせたが、くるんと身を翻し
た。
「ごめんなさい。今、新聞持って言えないとこに行ってます!!」
その大声に高耶はあわや指を切るところだった。
(美…美弥のやつぅ…っ!)
「戻ったら、すぐに電話させます!え…?」
美弥の声がちょっと惑った。千秋の所に居る、と言ったんだろうか、と
高耶は肩をこわばらせた。
「はい…はい、わかりました」
電話を切る気配に、高耶はあわてたように仕事を再開する。美弥がこちら
を見ている、と背で感じるが、声をかけてこないのにじれて振り向く。妹は
のれんの下から、じいっとこちらを見ている。
「…なんだよ」
何気なく、と声を整えたが、高耶の顔は赤面という手段で、持ち主を裏切
った。なおも数秒間、兄をじいっと眺めて、美弥はすとんと言った。
「こちらからかけますよって」
そのまま、またじいっと自分を見ている美弥に高耶はうろたえる。
「な…なんだよっ?」
「直江さんてさあ…」
高耶は、え、と息を呑む。
「いい声だよね、ホント」
ふわあーと兄の身体が力をなくす。
「あー、まずいっ!!バスタオル、外に出したままだーあ」
美弥があわあわとベランダへ出る。夕風にあたってしまっては、もう湿っ
てしまっているだろう。
高耶は小さく溜息をつくと、まな板の上のネギに目を戻した。父親が出張
でいないので、今夜はそうめんに前日の残りの肉じゃがと大根のサラダです
ませることになっている。大した用意などいらなかった。
ぐずぐずと胸の中が落ち着かない…と、高耶はいらだっている。打ち合せ
に現れなかった千秋を案じたのは、ごく普通のなりゆきだった。千秋のアパ
ートの前に止まっている宇都宮のレンタカーを示すナンバーをつけた白のプ
レセア。心がとくん、となった。
ドアが開く寸前、ふと胸にさしこんだかげり――。
――何故、千秋のところに?
自分のところではなくて――
シーツを抱えて立ち上った直江、千秋の看病に来た直江、千秋の腕をつか
んだ直江――
目は離せないのに――どろどろと心の中に広がっていく不愉快さ。
『直江さん』
譲の明るい声が胸の奥の暗い淀みを震わせる。見るまいと背を向けたくせ
に、遠ざかる二人の気配をじっと息を抑えてさぐっていた。
一言もまともに言葉をかわさなかった…。
そのことが今、ぐじぐじと胸を苛む。奈良行きからこちら、どうしている
のだろう、夏は実家の方の仕事が多いのだろうか…と何となく気になってい
たのに。
――『たーいしたもんだよ』
熱っぽい顔で、千秋が投げかけてきた揶揄が、脳裏から消えない。
「あ――…」
美弥の何とも奇妙な声に、高耶ははっとする。妹が眉間にしわをよせ、ち
ょっとちょっと、と手を振っている。
「”黒ジャージおじさんとドーベルマン”が通ったー!」
おや、と高耶の思いも日常へ動く。
「…散歩ルート、変えたのかと思ったのにな…。一週間…か?ここんとこ
静かだったのに」
「旅行にでも行ってたのかなー」
美弥が室内に戻ってきながら、時計を見る。
「七時十五分…。うー、いつもの時間、ということはぁ」
「また”今井のハデハデおばさんとその土佐犬”に三十分後、この真下で
遭遇ってことだな」
この二匹の犬は、毎夜散歩ルートが高耶たちの団地の前で交差し、ものす
ごい敵意の応酬をする。それぞれの飼い主は顔色ひとつ変えず、猛り、吠え
あう犬をひきずってすれちがうのだが、強情に散歩ルートも時間も守り続け
ている。少しでも変えてくれたら、どっかで吠えあうにしても違うところに
なるのにね、と階下の人が言っていたが、一番いいのは出会わないことだろ
う。
火にかけてあった大鍋のふたが、かたかたと鳴った。高耶はひとつ首を振
ると、そうめんをゆでる、という日常そのものに向き直った。
何も言わないまま、機械的に夕食を終えた兄に美弥はうかがうような目を
向ける。先程の態度と時折電話の方へ投げかける視線から、それとなく察せ
られてはいるのだが――。
――『直江さんてさあ』
本当は美弥は、こう言いたかったのだ。
――お兄ちゃんの何…なの?
譲の霊障騒ぎは美弥も知っていたが、それに絡んで知り合ったのだとしか、
高耶は言わなかった。
けれど、単なる知り合い、ではなくなっていると思うのは気の回しすぎだ
ろうか。
長身でいつも黒いスーツ姿の直江は、どうかすると端正すぎて現実の人間
とは思えないのだが、ひとたび笑いかけてくると空気がふわりと暖かくなる。
包みこむようなそれに触れると――兄は見たこともないほど安らいだ表情に
なるのだ。
今は一見平和だが、父の在宅時の空気はどこかぴりぴりしている。父と兄
の間の深い傷がそこここに落ちていて、罠のように口をあけている。
けれど自分と二人きりの時よりも、もっとくつろぎ、幸せそうに見えるの
だ、兄は…。あの年かさの人のまなざしが側にある時…。
電話が鳴った。
食卓に肘を突いていた高耶がはっと顔をあげると同時に、美弥はつるつる
っと自分の小鉢のそうめんをすすりあげ立ち上った。
「ごちそうさまー!あたしがさげまーす!洗いまーす!」
兄はう、とも、あ、ともつかない唸りを発したが、しぶしぶ立ち上った。
「…はい」
『高耶さん?』
心がことり、と音をたてる。深い声が紡いだ自分の名を心地よく思う。
「あ…うん、オレ」
『先ほどは、あわただしくて』
すまなそうな直江の声に、千秋の皮肉な声が重なったように思えて、高耶
は彼の言葉をさえぎった。
「手伝えなくて悪かった。千秋の具合は?」
『結局メスを使うことになりました。成田医院には申し訳なかったんです
が』
え、と高耶は目を見張った。
「メス…って、お前が!?」
直江の声が少し笑う。
『もっと切れ味の悪い刃物を使ったこともありますからね』
うっ、と思いつつも直江の声にどんどん柔らいでいく自分がはっきり見え
るような気がして、高耶は訳もわからず、それに抗おうとした。
「あのつっぱりヤローが、お前に助けを求めるなんてよ、よっぽどのこと
だよな」
冷静に、と自戒するのに、単なるぶっきらぼうになった自分の声によけい
いらだつ。
「オレが役立たずなのは、言われなくてもわかってるけどよ」
『高耶さん?』
いぶかし気に語尾をあげた直江の声に、高耶は下唇をかんだ。
『――長秀は誰の手も借りない男です』
きっぱりそう言いながら、ふと低く彼は言葉をついだ。
『一人をのぞいて』
(それがお前なんだろう?)
いらだつまま、なじるように高耶が言葉を発しかけた時、ものすごいわめ
き合いがあたりを制した。
「うわっち!」
「きゃー!!」
美弥が濡れた手のまま、ベランダにすっとんで行く。
「すごいー!一週間分だー!黒ジャージ・ドーベルマン VS ハデハデ今井・
土佐けーん!」
喧騒からのがれようと子機を強く耳にあてて、高耶は目を見張った。うめ
くような直江の唸りが同じ騒ぎを背景に左耳から聞えた。
「なおっ…!お前、どこにいんだ…」
高耶ははっとして美弥の後ろからベランダの方へ身を乗りだした。
派手なわめき合いのわりには、風景は日常へ戻ろうとしていた。ドーベル
マンはつまらなそうな顔の黒ジャージの初老の男にひきずられていくし、土
佐犬は立派な体格の中年女性の、夜目にもきらきら鮮やかな輝きの指輪だら
けの手に、ぱちんぱちんと尻を叩かれながら、哀し気に鳴いて反対方向へ行
く。双方向へ離れていく犬達の距離、その中心になる位置に立つ長身の男。
白いシャツの背をわずかに前かがみにして、右耳をおさえ、左耳に携帯らし
きものをあてがっている。
高耶は物も言わずに、子機を美弥の手に押しつけて部屋を飛び出していっ
た。