葉月の銀砂
4
直江は、一歩団地の敷地へ入ると、苦笑しながら電話を切った。階段口か
らこちらへ走ってくる姿をまぶし気に見つめる。
高耶は相手の頭上の街灯が作っている光の輪の中へ入ると、はあっと息を
ついた。
「耳がしびれましたよ」
暖かい声に高耶もぎこちなく笑った。
「…んだよ。ここまで来てたんなら来りゃいいのに、直接」
「夕食時じゃ失礼でしょう」
直江は右耳をぽんとふさいでみせて、参りましたね、と唇で言った。
「いっつもなんだぜ。決まった時間、いつもここ」
広くはない団地の前庭に、ペンキのはげた小さなぶらんこが三基ある。す
わんねーか、という高耶の促しを受けて、直江も右端のそれにおそるおそる
腰をおとした。
「ああ、先にこれを」
中央のぶらんこにおさまり、何となく脚をぶらぶらさせていた高耶は、直
江が小脇にはさんでいたらしい包みを差し出されて、なに、と受け取った。
大判の本と知れるそれは、藍色の地に銀砂を振りまいたような包装紙にお
おわれ、流れ星のような金色のリボンの花が一隅を飾っている。
「遅くなりましたけれど」
開いてくれ、と手で促して、直江は改まった口調で言った。
「お誕生日おめでとうございます、高耶さん」
現れた本のタイトルから、高耶は目をあげた。ぽかんとしている。
「これ…」
ソラ
『宙の名前』写真集の中にも包装紙と同じ銀河が広がっている。
「オレ…に?」
「どこにでもある有名な本なんですけどね。行きつけの書店のひとつに
オリジナルの包装紙を使っているところがありまして」
粗雑な言葉づかいのわりに、きれいにシールとテープをはがし、包装紙を
ていねいにたたむ高耶の細やかさに、直江はくすりと笑った。高耶はそれに
気づいて、ちょっとむくれた。
「美弥がきれいな紙、好きなんだ」
そこではっとする。
「行きつけ…」
(宇都宮…の?じゃあ…わざわざ…)
「それがひとつ」
高耶は本の中の夜空から、直江の生真面目な声を振り仰いだ。
真顔になった彼の頭上には、ひときわ明るい星がある。
「もう一つは…奈良行きからあまり経ってないので、どうか、とも思った
んですが…」
直江は目を落し、ちょっと口元を手でおさえ、言葉を探している。
「一度、富山の方へつきあっていただきたいと思いまして」
「富山…?」
直江は顔を上げたが、高耶の方を見ないまま空を仰いだ。
「会っておいてほしい人達がいるので…」
静かで、どこか哀し気な声音が天へ吸いこまれる。
「…まだ思いだされてはおられないでしょうけれど」
自分に目を戻してこない直江に、高耶はふと、また胸の奥がしめつけられ
るような疎外感を味わった。淋しい、とやけに素直に思えて、先ほどのいら
も と
だちの原因をそっと口にする。
「千秋の『一人』って…」
おずおずとこわがるように。
・ ・ ・
「それ…それもオレ、は、知ってるやつなのか?」
天界に奪われていたような直江の目が、少し辛そうに高耶の元へ帰ってき
た。
「あなたは…とても苦しみました。とても…自分を責めた」
直江の言葉の意味をはかりかねて、高耶は瞳を揺らした。
「…でも猪飼はいつものように笑いました。”力”をうまく制御できなく
なったのは、自分の甘さゆえだと」
「い…いかい…?」
「猪飼和道」
その名は高耶の心のどこかに触れたように思えたが、はっきりとした印象
を結ぶには至らなかった。直江は淡く微笑み、低く言った。
「夜叉衆の一人だった者です。謙信公の信の篤かった宇佐美殿の血筋…」
ふと直江は言葉を途切らせた。うつむいた横顔を高耶はいぶかしげに目で
追った。
・ ・ ・
「…一人だった、って…。もう…その、浄化しちまったのか?」
「長秀はそうは思っていないようです」
直江がす、と立ち上り、月に顔を向ける。
「…あなたは全て思い出します。色部さんや…晴家のことも、もっとくわ
しく。長秀と猪飼のことも…。長い戦いのことも…。いずれ――」
一息おいて加えられた声は、冴えざえとして――冷たかった。
「私のことも」
ややあって振り返った直江は、痛みをこらえるように目を細めた。
本と紙とを体の前に抱えこむようにして、立ち上った高耶は、言葉にでき
ない不安ともどかしさに唇をかみしめている。それでも――すがるのではな
く、直江の謎だけをふやしたような物言いを、その理不尽を非難するような
まなざしだった。
(そんな顔しないで)
直江は苦し気にその目を受けとめる。
・
(私を忘れている。あなたは。
…信じたりしてはいけない――こんな罪人を。
そして――)
八月の銀砂の散る夜空の下で、彼は澄んだ虎の瞳に魅入られる。
・ ・
(私も忘れている。あなたという人の怖さを…。
傷つきやすい優しい心を不器用な強がりで防御している少年。
・ ・ ・
それも確かにあなただ。でも、あなたの全て、ではない…。
気を許しては――いけない。
それ――でも…)
高耶は二度ほど、体全体から送り出す、というように何かを言いかけた。
「オレ…」
ようやく言葉がつかまったらしい。
「…まだ、礼、言ってなかった」
直江は目を見張った。高耶はぎこちなく抱えていた本を持ち直した。
「大事にする…。ありがとな」
優しい笑みが直江の口元に誘われてくる。高耶がそれに安堵したのが伝わ
る。
「東京よりか、ずっと星見えてんだろうけどな、ここは。でもこういう本
見ちゃうと、けっこう都会寄りの夜になっちまってんだ、と思うよな」
「そうですね」
直江は再び頭上へと目をやる。
「ひとつひとつの家の灯は心をなごませてくれるのに、集まりすぎると星
の声をかき消す喧騒になってしまう」
ふと気づいたように、直江が右耳を叩いてみせた。
デュエット
「…もっとも、さっきの二重唱に比べたら」
高耶が笑った。
「富山、行ってる間だけでも聞かずにすむなら、ありがてーや」
直江は申し出への承諾を受けて、うなずいた。
(それ…でも)
今はいいだろう…?本当のこと、から逃れるのではない。目をそむけよう
とは思わない。でも――。
束の間の安らぎとはわかっていても――。
”仰木高耶”の無邪気な信頼、不器用な笑顔。まだまだ護られるべき年か
ら、人の盾になることを引き受けて、体中で踏んばっていたこの少年をほん
の少しの間、休ませて暖めて――。
結局は過ぎたはずの時との戦いへひきずりこんでいくのだとしても。
「魚のおいしいところですよ」
高耶がぴくんと反応するのを、虎というよりネコ缶の音に耳を立てる仔猫
みたいだ、という無礼な感想は胸にしまって、直江はつけ加える。
「それから――星座早見盤を持っていきましょう」
「『○年生の理科』かっつーの」
軽い笑い声をたてて、直江は道の方を顎で示した。
「一応、今夜は長秀を見ていようと思います。…ま、こんな時でも口だけ
は元気ですけどね」
「今日、親父いねーから、美弥一人にしたくないけど…ちょっとだけ、か
らかいに行ってやっか」
これ置いて、と高耶は贈り物を見つめた。
「千秋のバカに見せたら減る」
美弥にちょっと断ってくる、と踵を返して走っていく高耶を、直江は優し
い沈黙で見送る。
束の間の幸福だとしても。
――最後のあがきを渡り歩くことになっても――見ていたいんだって。
友の”真実”を語る長秀の声。
・ ・
――だから、あいつはまだここにいる。
「そして私は…」
ここにいる、と直江は目を伏せて左胸に手をあてた。
(あの人も今、ここにいる)
銀の砂の踊る天空の下。
私たちは――ここにいる。
了
あとがき
”ハヅキノギンシャ(サ)”
なンか…終わったぞ、よくわかんねーけど、と高ちんしゃべり。
ミラの5と5.5の間という設定。ほんとはその二冊の間は三日しかないんですが、ま、
おきまりの”すきまねらい”ですな。
直江もまだ良き保護者のスタンスを守ってます。
高ちんは、初恋症状の自分をもてあましています(しっかし、まんま少女マンガやね)。
色部さん、綾子さんには手が回んなかった、さすがに。
でも、美弥は、自分の子に仕立て直しました。けっこう好き。
千秋――彼にまで”たった一人”(でも彼と猪飼は親友である。それ以上ではない)を
作るのは、ちと抵抗ありました。
原作の千秋=長秀は、そのへんクールなんで――そこが好きだし。
原作対して失礼にならないようにと心がけつつも、少しだけ「コウダッタライイノニナ」
をやらせて下さい。
”月名と宝石”が ”月名と貴金属”。ま、いっかー。
1998.5.13.