如月の光玉〜火輪・異聞
1 樹林の翠
「手を出すな、阿蘭」
信長は、ずい、と一歩出て、蘭丸を脇へ押しやった。
「これは、わしと日向とのこと。絶対に手を出すな」
その瞬間、森蘭丸の心を貫いたのは、四百年の時を越えて相対した明智日向守光秀への
強烈な嫉妬だった。
かお
上杉景虎でさえ、主、信長にこのような表情はさせられなかった。生前も、そして時を
経て甦って重ねたいくつもの憑坐の顔にも、こんなに――ただ、ひたむきな相手への注視
がうかんだことはなかった。
阿蘇の五岳を臨む樹林の中に、激しい光の応酬がきらめく。夜闇さえ払う戦いの気配の
真摯さに、蘭丸は目が眩むような焦れを覚えた。光秀に――己を殺した者へ、信長が向け
る感情のひたむきさが、今、戦っている二人の間で輝きを放っている。
(主命に背いてでも――!!)
蘭丸の目が、ぎり、とつりあがった。自分を突き動かす、どす黒い憎悪に身をまかせる。
(あの男はこの手で・・・!!)
主と光秀の戦いに割り加わろうと決意を固めた蘭丸のオーラが、敏捷な若者の宿体から
躍り上がる。
その光をまとって、林に分け入ろうとした瞬間、彼の行く手をさえぎるように一人の女
が現れた。
蘭丸は、高ぶった感情のままに邪魔者を見据えた。
「・・・上杉の"猿"か」
女は三十に手が届く、というところだろうか。
少しくせのある短い髪は、黒目がちの瞳、小作りな卵形の白い顔とよく調和し、静かな
印象の小柄な女性を形作っている。
しかし、視線の中の闘気と、きっと引き結ばれた口元が、その女らしさを裏切っている。
ジーンズの上下に身を包み、蘭丸を前に一歩も退く気配のない彼女からは、明らかに二つ
・ ・
の魂の波が投射されていた。憑依されている。その気――今、場を支配している方の気
み
を視るように、蘭丸は目をすがめた。
「ああ、お前は知っている・・・。安田長秀の手だな。・・・九郷、と言ったか?」
蘭丸の口元が動き、冷たい笑みになる。
「猿如きに、阻めると思うてか!!」
言葉とともに放たれた<力>は、しかし猛然と地を蹴った相手の眼前で砕けた。
蘭丸は驚愕に目を見開いて、身を躱した。
その肩口を萌黄色の閃光がかすめ、夜を切り裂く。背後の雑木林は、別の<力>同士が
ぶつかり合う輝きに激しく照らし出されて、怯えるようにざわめく。
信長と光秀だ。
憑依霊と侮った相手の思わぬ"気"の強さに、蘭丸は動揺した。が、一刻も早く主の仇
の元へ、と心をひきしめて、体内の気を集め、身の周囲に奔らせた。
「雑魚がぁっ!!」
上杉の軒猿と見定められた女の動きは速い。換生者の蘭丸との間には明らかに力の差が
あるはずだが、木々の間を縫うように動く彼女は視野に捕らえにくく、蘭丸は舌を鳴らし
た。思わぬ手こずりだ。念波の応酬を経つつ、相手を広い空間へ誘い出すしかない。もう
一つの戦いが繰り広げられている場に、だんだん近くなる。
主とその仇敵――のはずの男との戦いのそばへ。
信長は笑っていない。
毒々しいほど、戦いへの悦びを漲らせて、数々の相手に迫っていたはずの彼が、こんな
戦い方をすることを誰が知っていただろう。
張り詰めた"壁"に、疲れがほころびを生じさせる。にも関わらず、ひたむきな――同
かお
じような表情で、光秀もかつての主の攻撃に対峙している。その瞳をとらえあったまま、
二人は無言で<力>を放ちあう。
この二人にも力の差はあるはずだった。肉体に根を下ろした換生者の信長の"気"の充実
に、憑依霊の光秀が同等の力を持てるはずがないのだ。しかし――。
足下の地をえぐられて、光秀はたたらを踏んだ。朝までの雨を含んで湿った土に足をと
られたその隙を信長が見逃すはずはない。短く強い念波の嵐を上体に喰らって、光秀が吹
き飛ばされる。だが、身を起こしざま放った式神の一体が、詰め寄ろうとした信長の右頬
をかすめた。きしむように信長の眼がつり上がり、低い唸りとともに全身で光秀にぶちあ
たる。二つの身体はもつれ合うように、桜の老木の根方に倒れこんだ。一瞬の動きで信長
の右の掌が、光秀の喉笛を抑えこみ、息を荒げたまま、かつての主従は間近で瞳を交わし
た。
優位に立たれながら、まっすぐに見上げる光秀の目と――真摯なひたむきさで見下ろす
信長の眼と。
「―――何故だ?」
信長の声は静かだった。
「そなたの力なら、換生ぐらいできたろう。・・・また青臭い正論か?」
信長の目が、わずかに細まる。
・ ・ ・
「――そんな生ぬるいことで、私を裁けると思うか?」
光秀の喉が、信長の手の下で小さく動いた。
それでも目をそらさない彼の視線の先で、信長の目は微かに和らいだかに見えた。
「お前――お前が私を容認している。それこそが"時代"の肯定。"時代"が私をえらん
でいる――その証」
光秀の口元が、薄く開いた。信長は穏やかに続けた。
「正しくて――誠実で。誰にでも肯定されるお前。お前が私に背かぬ限り、私は私であ
っていい。そうだろう?」
近づいてくるもう一つの戦いの気配も、彼の睦言のような語りかけを途切れさせはしな
い。
「何人、何百人、いや何十万殺そうと、どんなに非道の魔王と言われても、お前が私に
背かぬ限り――」
光秀も目をそらさぬまま、注がれる言葉を受けとめる。
「"裁き手"が従っている限り」
別の者の<力>が、二人のすぐ脇を走り、炸裂した。桜の幹に女の身体が叩きつけられ、
仰向いた光秀の近くに落ちた。地に伏して、呻きもあげない。信長は彼女に目もくれなか
ったが、光秀はわずかに反応を見せた。
ゆっくり右手を上げた彼に、信長の目が問うように揺れる。だが、その手は、そっと自
分の首をつかんでいる信長の手に触れただけだった。
「何故か、とお尋ねになった」
同じように静かな声だった。
「何故、この肉体に根をおろし、力を強めないのかと」
光秀の手は、信長の手首を包む。
「そんなことのために・・・戻ってきたのではないからだ」
相手を追って、天に枝を広げる大木に近づいた蘭丸は、横たわる女の手がそろりと動き、
地に留めつけられた男の肩に触れるのを見た。同時にもう片方の手が、ぴたりと古木の幹
にあてられるのも。
その刹那。
女の背から、何かが躍り上がった。
離れたその"気"が、今まで『九郷』と認めていた霊そのもの、と蘭丸が見てとった時、
そこに居る者は全く気配を変えていた。
静かな水のように透明な力が、女の身体を征した。その口から、凛と響く清流のような
"言霊"が流れだす。
「樹精よ、吾が名取りて、依りどころと成したまえ・・・!」
地が震えた。老木の根が、その言葉の力に応えたのだ。
同時に女の身体が澄んだ翡翠の色を帯びた。寸瞬遅れて、桜と光秀の身体も同じ輝きに
呑まれた。
「この・・・ために・・・」
低く優しい響きとともに、光秀の霊が、触れ合った手から信長――斯波英士の肉体に流
れ込む。強い――抗いがたい力に包まれて。
「がっ・・・あっ!!」
信長が、よじれた線を残して首をのけぞらせる。しかし右手は、組み敷いている男の喉
から離れられない。見る間に、彼の身体も光秀たちと同じ翠色に染まる。
「殿っ!?」
駆け寄ろうとした蘭丸に、女の目が向けられる。細い翠光がはじけて、目の前に散った、
と思った瞬間、彼の肉体はかくり、と、力を失った。前へ出ようとした勢いのまま、地に
投げ出される。
「・・・な、にっ・・・!?」
澄みすぎて凍るような水が、身を貫いたかのように――気のめぐりが、ぞわりと流れを
乱し、<力>も肉の力も抜かれた。あがく蘭丸の耳にかすれた光秀の声が聞こえた。
「・・・上杉のっ! 今だ!!」
(うえ・・・すぎ・・・)
"猿"の九郷のことではない。では、あの憑坐を務めていた者は! その者は!
「殿・・・おっ!」
――あなたをつれていく。
(・・・なに・・・?)
――あなたをつれていく。もうさまよわせない。
(なんだと・・・?)
真剣な――嘘もゆらぎもないものが、今ここに。
叫び続けてきた――この奥、に。
入ってきて――ささやく。
――おびえなくていい。まどわなくていい。
わたしといこう。
(おまえ・・・)
それ、がいる。こんなに近くに。こんなに・・・側に。
――いっしょにいこう。わたしと。
迎えに来た、と。
――そう、それだけ。
(それだけ・・・?)
――そう、あなたのため。
いきることがつらくて、こわがって、ないているあなたのため。
ふあんでこわくておびえていて。
肉の器に入ってきたものは――やさしい。
もう突き放すこともできないほど。
だから、もう拒めない。
心のどこかは、まだ抗おうとする荒ぶりを抱えていたが、源は流れこ
んでくるものへと手をのばす。
ただ一人――自らの裁き手と定めた者の真実に触れて、その癒しを受
け入れる。包まれる。認める。
溶け合い、天へ――全ての恐れを越えて。
女の手が木から離れた。翠光のひいていく中、す、と懐へ入る。再び現れたその手に似
つかわしい小さな銃。
蘭丸は、がっと喘ぎ、女の意図することを封じようとあがいた。が、彼の身体は、不意
なか
に自らの内部へ割り入ろうとする他者に気づいて、びくりと跳ねた。
先ほどの――九郷だ。女から離れた九郷の霊が、必死で蘭丸の身に取りつき妨害してい
る。
異様な気の発散で気づくべきだった。九郷の霊力は憑坐の正体を覆い隠すために増幅さ
れていたのだ。
増幅能力――光秀に、九郷に力を与えた。
かつて夜叉衆にいた。そうした<力>の持ち主。しかし、その者――宇佐美の血族、猪
飼和道は、とうに現世を離れたのではなかったか? それに、これほどの――樹精の力を
変換して自らの<力>の供給源とするような力までは!
女の顔には、何の表情もなかった。銃口の先には、空を仰ぐ赤い髪の若者。
「やめ・・・!」
蘭丸の口からもれた呻きと、たん、と乾いた銃声とが重なる。
斯波英士と呼ばれていた青年の額に、赤い小さな穴が穿たれる。のけぞり、崩れるその
身体から、解かれて翔び立つもの。
二つの魂――それは、すでに溶け合うように寄り添っていたが――は、ひゅい、と天へ
駆け上る。解放を喜ぶように。
(殿・・・!!)
蘭丸は身をよじり、腕を伸ばした。ひしゃげた絶叫が、喉を突いた。
「殿おおおっ!!」