M〜part1 微笑う聖母
「あの人の側にいようと思います」
あなたは微かに目を見張る。私はゆっくり微笑む。
「私の生命なんて、あっという間にすぎてしまう風のようなものだけれど、
それでも今の…この生命の間はあの人の側に」
あなたは私を見つめている。
「ずっと」
あなたの手がぴくりと動く。
「あの人を癒してあげたいの」
それはずっとあなたにむけていた言葉。
ずっとあなたのために紡いでいた想い――そのはずだった。
「支えてあげたいの、救ってあげたいの」
なんて傲慢な言葉。なんて空々しい言葉。
でもそれはあなたの心にくいこむ。形のまま。
「わかるのは私だけなの。あの人の苦しみを理解してあげられるのは私
だけなの」
あなたの瞳の奥に何かがゆらめく。
「私だけがあの人を癒せるの」
この刃は確実にあなたの心にくいこんでゆく。
これはあの人の叫びと同じなのよ。
あの人が自らに突きたてて、狂おしい痛みに崩れていった時の。
「憐れみか…?」
かすれたあなたの声。
そんなもの、あの人が受け入れるはずはない。
あなたは必死でそう言っている。表面は”心変わりした女”を責めるよ
うに。
「私だけがわかるの。例え――そうでも、あの人には…」
私は微笑む。あなたが愛しんでくれたはずの聖母の微笑み、ね。
「私しかいないのよ」
もう…憐れみにさえ、すがらずにいられないのよ。そして私の憐れみなら、
彼は受け入れるの。
愛しいあなた、私達の愛しいあなた。
あなたは、わずかに目を細める。深く沈んでいく私の――私達の刃を受け
とめて。
くらし
「戦いが終わったら、普通の生活をするわ」
可哀相なあなた、あなたには見破れない。
不思議ね、どんな邪も不義も見通す目をしているでしょう?
あの人の心のすみずみまで知ることができるのに…なぜ、こんな普通の女
の嘘が見抜けないの?
私はそっとおなかに手をあてる。
「あの人にとって、この子は罪の証。苦しみはすぐに柔がないけど」
あなたが小さく息を呑む。そうね、あなたは知っている。私が今言おうと
することの意味。子供を持つということ。
「でも父親って想い出の積み重ねで子供を愛しく思うようになる、とも聞
いたの。私、それを信じるわ」
聖母の微笑で私は言う。
と
あの人を私が奪るわ。
あの人の気持ちがわかる私が奪るわ。
かつ
癒せるなんて嘘、あの餓えが柔ぐなんて嘘。
それでも――それでもあの人は私の腕に倒れこむしかないの。
私しかいない。これは本当だもの。
あの人と私の想いは、重なっている。同じ形をしている。
あなたには決してわからない
あなたには決して届かない想いだから
あの夜、私達は二人ともそれを知ったのよ
だから――私はあの人を奪う。
あなたから奪う。
あの人は抗い、あなたを恋い狂うでしょう。
それでも私から逃れることはできないの。
いいえ、逃れることさえしないの、させないの。
清らかな許しで、彼の頬を包んであげよう。
優しく抱きしめ、唄ってあげよう。
あなたにしてあげたかったことを、全部彼にしてあげよう。
見ていてあげて。
彼が誇りも闘志も失って、誰よりも憎んでいたはずの聖母の仮面の女の胸
に身を投げだすのを。
見ているといい。私の腕の中のあの人を。
引き裂かれた胸からは、血が流れ続ける。
もう本当のあなたではなく、心の中のあなたしか見なくなる。
光のない瞳で私にすがりつくしかない。
あなたの――最も愛しい、最も大切な人を
私は奪う。
「短い間でもいいわ、ほんのいっ時のことでも。
あの人を暖めて、いい想い出になってあげたい」
聖母なんて嘘よ、私は私が大嫌い。
「私だけなの」
可哀相な――あわれな――愛しいあなた、
この罠は捕らえた者を奪ってしまう。
ねえ、この微笑のまま、言ってあげたい。
あなたが私の上に描いてくれた幻想の聖母像の中から、
――私だけがあの人をわかる
私だけがあの苦しみを抱きとめる
永久に手に入らないものに焦がれる辛さを
私なら分ちあえる
あなたでは なくて
ゆるゆると血が流れ出す。あなたの瞳から。
私達――私の刃がつけた傷から。
私は微笑む。癒されて微笑む。
夜叉の名は―― 今、私にこそ、ふさわしい。