水無月の紅玉
1 昼の後ろ側
「教えられることなんてないねぇ」
座卓から身をはがした譲が、参った、というように、両手を上げて後ろに倒れた。
「そんなことねぇよ」
高耶はやれやれと言う顔で、まだ目の前に山と積まれている高校三年間の教科書と問題
集を眺めた。
「そんなことなくないよ。基礎は全部入ってるじゃんか。どうして現役時代に、あれだけ
唸ってたのかわからないよ」
口をとがらせて言い募った譲は、はっとしたように頭を起こした。
・ ・ ・
「…今までの積み重ねってこと?」
漢文の教科書に手を伸ばしていた高耶が、ふとその手を止める。
「まあな…」
その下の現国の方を引っ張り出す。
「…引き出しの開け方がわかった、ってぇか…。でも要領悪いから手間かかる。今の自分
がさぼってた分は、しっかり重石だしな」
ぱらぱらと教科書をめくりながら淡々と言う高耶を、譲は複雑な面持ちで見上げた。
自分が"仰木高耶"以前の生の記憶を保持していることを、この頃の高耶はさらりと口に
する。あまりに気負いなく交えられるので、時々聞き流してしまい、あとで譲ははっとす
るのだ。
「…ん、ま、これなら今年の八月でも大丈夫だな」
すでに高耶は長野の教育委員会への大学検定の申し込みを済ませている。今年!?と目を
剥いた譲が押しかけ家庭教師として、星加の家に通っているのだが…。
高耶に用意された東の角部屋は採光が良く、畳の匂いも心地よい。ひっくり返っている
と、眠気を誘われそうになる。
「譲、そろそろ行くか?」
え、と時計を仰いで譲は起き上がった。
勉強を始めるなら、ということで、高耶は深夜のバイトをやめた。代わりに市の中心か
ら少し離れたところにオープンした郊外型書店の、午前の荷出しがメインという仕事を見
つけた。譲もちゃっかり加わることにした。朝食後、こうして星加家に迎えに来て、高耶
の学習状況を確認してから二人でバイクで出勤、というのが、彼の考えた一日のスタート
だ。親友のために注ぎ込めるこの一年を得たことを、彼は突然転がり込んできた贈り物の
ように思っていた。高耶は時々すまながるような目をする。そのたびに譲は微笑む。
(自分こそ――。お守りをさせていたんだろう? 俺、の)
高耶がぎこちなく笑みを返してくるのを、譲は本当に幸せな気持ちで見つめている。―
―けれど。
そうして笑んだあと、高耶は目をそらす。やるせなさそうに、宙に目をさまよわせる。
…譲は気付かないふりをする。楽しい話題を積み上げる。そうして再び高耶が笑うのを
見て、目にした"空虚"を消去する。
(大丈夫だ、大丈夫)
高耶はもう上杉の総大将なんかじゃない。
俺たちの仰木高耶なんだから。
「ただいまぁ!?」
玄関の外まで流れてくる甘い香りに、美弥は靴を脱ぐのももどかしく、式台に上がる。
「おばちゃーん! お兄ちゃーんっ!?」
廊下を突っ切って左側の台所に飛び込んで、美弥は絶句した。
「うっわー!! そりゃ、ジャムの匂いだー、とは思ったけど…」
ちょっと閉口、という顔で、ペーパータオルを握った手を動かしている兄に貼りつく。
「どーしたの、この杏の山!!」
北側に位置する星加家の台所は、流しの正面に大きな窓を備え、ほぼ正方形の床の中心
に作業台を置いている。その真上には、小ぶりながら効果は絶大の天窓があって、とても
明るい。今、その光は、作業台の上の洗面器とバケツと一番大きなボウルにあふれんばか
りの杏を輝かせている。洗われたばかりのそれの水滴を兄がくるくるとぬぐって、大伯母
が二つに割り、種を取り出す。
「文化センターの方の生徒さんにいただいてね。沢山あるから、とりあえず煮てしまおう
と思って」
卵色のスウェットスーツという若々しい部屋着ながら、これだけははずせません、とい
う白い割烹着の幸子が、大鍋二つから立ちのぼる湯気を手で払い、のぞきこむ。
「ストーブも使おうかな。灯油もあるし」
「でもすごい量じゃない? ジャムにしても」
「今年は"なり年"なのよね。ありがたいようなありがたくないような」
うーん、バチ当たりな発言でした、と舌を出す大伯母の肩にくっついて美弥も笑い、黙々
と手を動かしている高耶の正面に来て、しげしげと眺める。
「…何だよ」
使い込んでいい飴色に古びた食器棚を背に、杏をふきあげる高耶が無愛想に言う。
「ううん?」
かぶりを振っておきながら、美弥はにやっと笑う。
「だから何だ?」
「うふふん」
高耶が手にしていた濡れたペーパータオルを、チェシャ猫笑いの妹に投げつけようとし
た時、玄関の方で音がした。
「こんちゃ!! おーい、玄関あけっぱなしー。危ないですよー!」
どかどかと近づいてくる足音に、
「千秋さんだ!」
と、美弥が高耶の肩の向こうを見やったところで、暖簾をくぐって白いトレーナーにジ
ーンズという姿の千秋修平が顔をのぞかせた。
「おお、美弥ちゃん、帰ってた? 俺、今日、大家さんのとこの収穫に付き合わされて、
それで…」
丸々とふくれたスーパーの袋を突き出したところで、高耶と幸子の渋面に出会い、二人
が何をしているかを見て取った千秋は、彼らしくもなく言い訳の口調になった。
「…だって、杏ってそのまま食えねーんだもん」
かくして、1.5倍に増えた杏との戦いに千秋も加えて、美弥も援軍に参加するべく私服
に着替え、エプロンを手にしたところで、インターフォンが鳴り、同時に外から、
「成田でーす!」
と、声がかかった。
「はぁい」
引き戸をあけた美弥の目は、譲の顔より彼が胸元に抱えたダンボール箱に吸い寄せられ
た。
「患者さんたちから沢山頂いちゃってさ、もう一箱ある――」
譲の声は、台所から飛んできた二重唱にさえぎられた。
「持って帰れ!!!!」
美弥は笑った。笑って笑って、泣いて座りこむまで笑った。
――お兄ちゃんはここにいる。
お兄ちゃんはここにいるんだ。
綾子は三、四日に一回ほど、電話をよこす。この前は、清正と九郷、それに哲哉まで交
えて呑んでいる居酒屋から、というしょうもない状況から。
色部は少し間遠になって、一週間に一回あるかないか。日光を離れてからは、行動範囲
がぐっと広くなった。
千秋は――よくわからない。ふいっと姿を見せなくなった、と思うと、切りたんぽを持
って現れたり(その前は姫路の銘菓「玉椿」だった)。
猪飼――御室真弓は…、困ったことに手紙をよこし始めた。昔から画才があったのは知
っていたが、目にも綾な季節の花をさらりと描いた葉書が届いて、幸子大伯母は驚き色め
きたった。以前、知り合ったこうした趣味の人なのだと、高耶は苦しく言い訳した。次か
らは優しい手跡の封書になり、それはそれで幸子と美弥を騒がせたが、内容は彼女の見る
囲内での自然の気の調和が良いことをうまく日常の言葉で伝えていた。今、この島国は穏
やからしい、と。
夜叉衆として生きてきたそれぞれが、静かに『使命のあと』を受け入れるさまが、そう
やって届く。
ただ一人、直江信綱をのぞいて。
不思議に四人の誰もが、他の誰かのことを口にはしない。
・ ・ ・
ごく自然にそうだから、彼のことばかりではないから――高耶は何も言えずにいる。誰
にも言えずにいる。
(どうして)
この沈黙は何だろう。この空白は何だろう。
胸元から離したことのないこの珠は現実か?
再生の勾玉を見つめて抱いたあの花の香は?
・
――彼は…本当にいるのだろうか?
と き
この…同じ時間に?
痛む夢を見る。
冷たい強い瞳の夢を見る。
屈辱や反発に揺れる瞳の夢を見る。
その奥にきらめく様々な色。
誇りや喜び、いたわりや挑戦――。
哀しい瞳の夢を見る。
疲れ、やつれ、絶望する瞳の夢を。
息が詰まって目が覚める。
毎晩なのに、身体はその都度、驚いて汗をかく。
・ ・ ・
これはどの夜なのだろうと記憶をたぐり、どの過去にいるのでもないと確かめ直す。
自分は松本に生まれ育った仰木高耶。
妹とともに今は大伯母の家にいる。
友人がいて、ずっと育ってきた町にいる。
けれど――胸を吹き抜ける風はやまない。初夏の気配がそこここに満ちているのに、背
中が寒い。振り向けないまま捜している。
あの優しくて激しいたったひとつの気配を。
思い出してしまえば――どんなに今生の直江が、疲れ悲しみ果てていたかがわかる。膝
が震えだしそうなほどわかる。今までのどの生の時よりも…必死で立っていたかがわかる。
傷を押し隠せないほど弱っていたかが――そして再会のあと急速に疲弊が進んでいったこ
とも、今はわかる。
貪るばかりで――彼を喰らい尽くすばかりで。自分の重ねてきた罪の深さが、今の高耶
にはわかりすぎる。
だから――毎晩、夢を見る。心地よい深い声に手を伸ばす。ずっと振り向けずにいたの
に、手をさしだす夢を。
名を呼びながら。
眠りが浅くなった。夢を見るのを身体が恐れる。けれど、あの瞳が恋しくて、あの声が
聞きたくて、心は夢を求める。せめぎあう二つの間で、高耶はバラバラになり、夜闇の中
でじっと膝を抱えている。そうして折り合いのつかない願いに挟まれて、浅い短い眠りを
縫う。あの珠を手にして。