水無月の紅玉
2 「明日」をさがして
「成田君」
正社員の越野がそっと譲を呼び止めた。出版社の名入りの赤いエプロンの似合う彼は、
この書店の要のような人だが、丸い頬には、お父さんと呼びたくなる暖かさがある。けれ
ど今その顔は心配げだ。
「あのさぁ、仰木君、どっか具合悪いなんてことない?」
譲が唇をゆがめたのを見て、彼は眉を寄せた。
「…成田君もそう思ってたんだ?」
「い…や…」
取り繕うように笑う自分を、譲は嫌悪する。
「んん…、勉強のしすぎだと思いますよ。あいつ、けっこう生真面目だから、八月に備え
てがんばってんです」
越野は譲の目をのぞきこんだ。
「そうかい? 本当に?」
譲は微笑み続ける。そう信じたいから。
「気をつけるように言っときます」
肩をそびやかし、もう一度笑うと、譲は平台に本を並べた。搬入口へと消える高耶の背
を見ながら。
「あの…千秋さん?」
下校途中の交差点で、出会った千秋と明るく言葉を交わし、行きかけて、美弥は足を止
め、振り返る。ん?と目を大きくした彼に勢いこんで話しかけようとして――惑う。
「あの…お兄ちゃん…」
千秋は穏やかな目で見返してくる。
「あの…」
美弥はまたためらい、言葉を見失う。
「あ…ううん、何でもないの…、ごめんね!」
少女は笑顔を作り、ばい、と小さく手を振った。
翻るスカートを、千秋は静かに見送って踵を返した。
自分は何者だ?
彼を見下し侮蔑し引き裂く己はいったい何者だ?
記憶の重さでつぶされてしまいそうだ。
苦しい、と地を這い、手を伸ばす。
その先に広がる――赤い水の中央に彼がいる。
力なく投げ出された指先。
胸からあふれ続ける血潮。
整った白い横顔は静かで、閉じた瞼はもうぴくりとも動かない。
静かで…穏やかで…。
この解放を望んでいたというように――。
ソウジャナイ
オマエハ望ンデナンカイナイ
ソンナコト オマエノ望ミノハズガナイ
無理やり、高耶は目を覚ます。
絶望に泣き叫ぶ前に。
大丈夫、と譲は繰り返す。もはや、それが願いにすぎないと知っていながら。
親友の目――きらめかなくなった黒曜の瞳に気付かないふりで。
お兄ちゃんはここにいる。
美弥は祈るように繰り返す。
お願い、それがずっとそうでありますように。
誰にともなく、祈るように。
でも―――。
「もう誰か、心当たりないかねえ、高ちゃん」
書道家としての仕事時は和装だが、帰宅すると、さっさと様々な色のスウェットスーツ
にたっぷりした割烹着というホームスタイルになる幸子大伯母は、その年代の女性らしく
常にくるくると働きまわっている。今も開いた冷蔵庫の前にきちんと膝――今日は濃いサ
ーモンピンクの――をそろえて正座し、中を眺めている。冷蔵庫の下段をずらりと占領し
た杏ジャムの瓶に、幸子は大きな溜息をもらした。頼まれていた買い物の中から、生鮮食
品を取り出しながら、高耶は首を振った。
「オレの知ってる範囲なんて、もともと狭いし」
はああ、ともう一度溜息をついて腰を伸ばして、大伯母は肉のパックを重ねた。冷蔵庫
へと向き直りかけて、ふと動きを止める。
「顔色が悪いよ」
強い声に、高耶は肩を揺らす。大伯母は小柄な身体をしゃんと張って、彼の方へと向き
合う。
「眠れてないね?」
かぶりを振りかけた高耶に、幸子はたたみかける。
「ここへ来てから、あんたはよくうなされてた…。でもお弔いを出してから、なくなった
みたいだったから、ああ、落ち着いてきたのかなって思ってた」
大伯母の目はまっすぐで、高耶の目を逃げさせない。
小柄な老婦人に射すくめられたように、高耶は身を硬くしている。
「でも、そうじゃない。…うなされる前に起きてしまうようになったんだね? 眠れてな
いんだ」
高耶は小さく口を開きかけ、また閉ざした。
「美弥ちゃんも気付いてるよ。それにそう…成田君もね。
二人とも、時々すごく辛そうにあんたを見てる。でも…」
大伯母は、一旦きゅっと口を引き結んでから、ゆっくり言った。
「…あたしたちじゃどうにもならない。そうなの?」
高耶は唇を噛んだ。ついに目をそらす。幸子は、いたましげに若者のそげた頬を見つめ
たが、声は乱れなかった。
「…それでもね、高ちゃん。明日は来るよ」
幸子は作業台の脇の丸椅子に座った。
「…あたしは復員したての人と娶わせられて――マラリアですぐ死なれてね。
生まれたばかりの娘を置いて、婚家を出されて…。まだ、小娘のあたしは、生きてく訳
も見失ってた。娘時代に習ってた書の先生に弟子入りできたのは、運がよかった。あんた
にとっちゃ"偏屈者の大伯父さん"の星加は、その先生の縁続き。
…あの人の出征中、奥さんと子供たちは、広島の実家に行ってて…。中心街だったから
ねえ、影も残んなかったって。
先生に薦められるまま、一緒になったけど、無愛想で何年経ってもよくわからない人で
…」
大伯母がくすりと笑ったので、高耶もゆっくり向かいに座る。
「…でも、あたしが書の仕事を続けることには何も言わなかったから、あの世代じゃマシ
か、ってね。…一緒になって、十二、三年ぐらいかねぇ…。婚家に残してきた娘が、若い
盛りなのに病気で逝っちゃったって…」
高耶は、え?と目を見張った。幸子は静かに続ける。
「あたしはしばらく起き上がれなかった。思ったより、ずっとずっと辛かった。
そしたら星加はそっちの家に一人で乗り込んでいって、これはあたしの分、あたしの涙
の分、って、えんえんとお線香を立て続けたんだって。
それから、あたしの枕元に来て。『あれだけ煙が上がったんだから、娘にもきっと伝わ
る。お前には沢山教え子がいる。明日はいつだって来るんだから、責任持て』って。これ
が縁ってものかなって、あたしは思ったよ、高ちゃん」
大伯母は目を上げて微笑んだ。
「あんたが辛い時、何の手助けもできなかったね。だから今も偉そうなことは言えない。
でもね、高ちゃん」
幸子は高耶の方へ手を伸ばし、前腕に触れた。
「あんたは幸せにならなくちゃいけないよ」
高耶は少し苦しげな目で、大伯母を見返した。
「本当にしたいことをしていいよ、高ちゃん。幸せになれることをしてちょうだい」
きっぱりと叱るように言い切って、幸子はくくっと目元で笑った。
「ついででいいから、ジャムの"養子先"も探してくれたら、おばちゃん、大助かりだけ
どね」
声が聞きたい、と思った。
あの懐かしい声が聞きたい。
何かを望む気持ち、というものを忘れていたことに気付いた。
電話番号を覚えていた自分が、高耶には少し切なかった。
宇都宮の実家には、寺の方に一つ、自宅の方に二つと合せて三回線がある。後者の一つ
が自分の部屋の近くだと男は言った。
「専用と言うわけではないんですが、ファクスを兼ねているので、檀家の方はあまり利用
されないんです」
高齢の方が多いから、自動受信用の案内メッセージを嫌がられるんですよ、と男は肩を
すくめた。
城山公園の夕風の中だった。風に乱された髪を無造作にかきあげた指先を――覚えてい
る。
「私の部屋に近いので、『アキのとこの電話』と呼ばれています」
アキ?と高耶が目を丸くすると、男はあっ、というように口端を押さえ、困ったように
微笑んだ。
「…まだ時々そう呼ばれるんですよ」
高耶は目を和らげて記憶をたどる。自分は驚いて――それから笑った。声をたてて笑っ
た。突然現れて、その身を楯にしてまで自分を護る――頼ってもいいのかもしれない大人
の男。その彼が家族にとっては、まだ大事な末っ子であるらしいと知って、そして、それ
を彼がきまり悪く思っていることを知って、ただおかしかった。
・ ・
その一方で――誰かに大切に想われている彼、に…。
高耶は小さく頭を振ると、過ぎた日を追いやった。あの時と同じ城山公園の夕の景色の
中で、携帯にナンバーを打ちこんだ。
以前と同じ自動受信のあと、呼び出し音が続く。
ひとつ、ふたつ。
高耶は知らず知らず指に力を入れて、携帯を握っている。
いつつ、むっつ。
十回鳴らして駄目なら、一旦切ろうと息をつく。
じゅういち、じゅうに。
留守録になる前に、と耳を離そうとした時、つながる音がした。
『はい、橘でございます』
女性――若い声に一瞬ひるんで、高耶は早口で切り出した。
「――仰木、といいます。…義明さん、は御在宅ですか?」
二息ほど間があいて、語尾のはっきりした物言いで相手が答えた。
『あいにく留守にしております。お電話頂きました旨は申し伝えておきます』
そのまま切る気配の相手に、高耶ははっとして言葉を継いだ。
「…あの! 今は前と違う所にいるので…! そっちのと、オレの携帯の番号を――」
『控えます。どうぞ』
星加の家の姓と電話番号、自分のフルネームと携帯の番号とを告げると、相手が書き写
す間があって、それからきちんと復唱してきた。
それでは、と切れた通話に高耶は我知らずうなずき、ゆっくり携帯を耳から離した。
誰だったのだろう。直江の義姉の声は一度聞いたことがある。おっとりした優しい声だ
ったと記憶する。今の声は、若く生硬な感じだった。
――申し伝えておきます。
電話は来なかった。
星加の家にも高耶の携帯にも、かかってこないままだった。
――この沈黙は何だろう。
胸元に持つあの珠でも、もう高耶の胸に開いた風穴をふさぎきれない。
「今年はカラ梅雨かも、って言ってたけど、時々こうして自己主張してるねぇ」
自室の広縁に立って、夕の空から落ち始めた雨を見ていた高耶は、えっ?と近づいてき
た美弥を振り向いた。
「何が?」
妹は溜息をついてみせた。
「空が」
「は? ああ…」
高耶は天へと目を向けた。
「…降らなきゃ降らないで、あちこち困るしな」
「水不足にお米、野菜…」
少しひんやりした板張りの上に高耶が腰をおろすと、美弥も傍らに座った。
「おばちゃん、傘持ってったよな」
「当たり前じゃない。お兄ちゃんとは違うよ」
何だ、そら、と高耶が左ひじで小突くと、美弥はけらけらと笑った。けれど、その響き
も雨の静けさに吸い込まれる。
「お兄ちゃん――」
ふと、美弥が改まった声で切り出した。
「お父さん、城北高に行った日の夜ね、泣いてたよ」
美弥は前を向いたまま、続けた。
「お兄ちゃんの退学の手続きをした日、テーブルのところに座って、ずっと。黙ったまま
泣いてた」
高耶は黙したまま、わずかに目線を下げた。ガラスの向こう、庭木を叩く雨足が強まる。
「お父さんだってさ…お兄ちゃん。
お兄ちゃんに幸せになって欲しかったはずだよ、絶対そう」
美弥の強い口調に、高耶は眉を寄せた。妹はいったい何を言おうとしているのだろう。
「あたし、お兄ちゃんが思ってるより、もっとずっとお兄ちゃんのこと、わかってる」
妹は、凛とした横顔を見せて言い切った。
「あのお花、直江さんだよね」
美弥は高耶へと向き直り、まっすぐ見合った。
「御礼、言っておいでよ、お兄ちゃん」
大伯母と同種の強さに、高耶は目を見張った。
いつから妹はこんなに――大人の瞳を備えるようになっていたのだろう。こんなに――
全てを見抜くような眼差しを。
「行っておいでよ、お兄ちゃん」
「高耶! 高耶ってば!」
書店の裏口から出て行こうとした高耶に、譲が追いすがった。
「どういうことさ! 何で峰さんが…!?」
譲は高耶の前に回りこんで、ドアをふさいだ。高耶はぎこちなく笑って、親友の腕をお
ろそうとする。
「峰さん、日中の仕事を探してたからさ、真面目な人だし…」
コンビニでバイトをしていた時の相方を、突然書店に連れてきた高耶の意図に、譲は驚
き、腹も立てていた。
「峰さんがどうこうじゃないよ! 何で突然…! 何で辞めちゃうんだよ!!」
怒りをほとばしらせる譲に、高耶は辛そうな面持ちで向き合った。
「…ごめんな、譲…」
「謝ってほしいんじゃない!」
譲は一声叫んで、高耶の上腕を掴んだ。
「どういうことなんだよ! こんなに急に仕事投げ出すなんて! お前はもう…」
譲は無理に声を落とした。
・ ・
「もう…解放されたはずだろ…? 仰木高耶だけのはずだろ?」
高耶は苦しげに友人を見つめ、小さく一度首を振った。
「…行かなきゃ…いけないんだ、譲…」
高耶は改めて譲と目を合わせた。
「…オレは…」
「高耶…」
沈んだ空気が二人を包む。その重さに譲は言葉を見つけられない。まっすぐ見つめ合う
のも、久しぶりなのだと気付いた。
高耶の瞳の輝きを呑んだ憂いは、二つの深く暗い淵のようだ。
帰ってくるんだろう?と気付かないふりで、明るく問いかければ、彼を日常に――ここ
につなぎとめられるかもしれない。けれど、それは高耶を苦しめることなのだ。
…あの二年の間、この土地は高耶にわずかに残された『還るべき場所』だった。だが、
"その全て"が高耶の居場所である存在、喪われたとされたそれが同じ時の中に在るとわか
った今は――。双の瞳の奥の憂いは、深く重くなっていくばかりなのだ。
家族にも故郷にも――そして親友を自負する自分にも埋めることはできない…。
『戻ってくるから』と決まり文句さえ、口にできないでいる高耶を。
「わかった…」
行かないでほしい、と心が叫ぶのは、エゴだ。譲は小さく息をつく。高耶の"一番"で
ないことを嘆くのは、もう傲慢でしかない。
けれど、せめて――。
「…待ってる」
たった一言、わがままを。