水無月の紅玉
3 走りだす朝
昼ごろから雲行きが怪しくなる、と関東の177番が言ったので、高耶はまだ暗いうちに
松本を後にした。ぐるりを囲んだ山を越えて、初めて『外へ出た』という気持ちを味わう。
今、彼が乗っているホンダのホーネットの銀は、一年前、彼の愛車を大破させた千秋が
代わりにと持ちこんだものだったが、素性の怪しさはともかく、コーナリングの足廻りや、
エンジンの低回転域での安定感と粘りは、250のクラスでは随一で、よく高耶になじんでい
る。
「東京へ大学の下見に行ってくる」
そう言った彼の言葉を、大伯母はどの程度信じたか。
具体的な日数も出せず、ただ日に一度は連絡を入れるから、と付け加えた高耶に幸子は
あっさりとうなずき、旅費は充分かとだけ聞いてきた。美弥は、雨が降ってきたら必ず雨
宿りして、無理な走行はしないこと、とだけ小指をからめて兄に約束させた。
時節柄レインスーツを着用はしたが、足元は街履きにも使えるガエルネのハーフブーツ
で長時間のツーリングに備えた。早くに出たのが良かったのか、長野自動車道、中央高速
とも快調で、高井戸のインターチェンジまで高耶は支障なく走り着いた。
動きはじめた大都市東京の朝を、最初に出会ったコンビニの駐車場で眺めながら、道路
図を確認する。
何でもないことのように、直江は言っていたが、宇都宮から松本へは、こうして東京へ
一旦出て高速を乗り継ぐのだから、決して短く御気楽な道のりではなかったはずだ。
高耶は小さくかぶりを振って、道の確認へと心を戻した。練馬へと北上して東京外環道
を使って、東北自動車道へ。宇都宮市街へは、同名の宇都宮インターではなく手前の鹿沼
で降りること、と頭に入れる。日光へ向かう観光客で高速が混むかも、と考えながら、ブ
ーツの紐を結び直し道路へ出る。
一瞬陽が射したが、また雲に呑まれて天気が読めなくなった。
梅雨という時期が幸いしてか、道路の混雑は比較的少なかった。二輪の強みもあって、
高耶は十時をまわった頃、鹿沼のインターで降り、県道へ入った。高速を降りる前、最後
のサービス・エリアでレインスーツを脱いだ時に、宇都宮の地図も買った。直江の実家―
―古刹、真言宗光厳寺は、中心街の西の郊外、つまりここから宇都宮市街への途上にある
のだ。
彼の居る土地へやってきたと思うと、高速を走っていた時の無心さは破られ、胸の奥が
揺れている。
高耶はグリップを握る手に力をこめた。
古くからの聖域を抱えていると知れる白壁を左手に、ゆるやかな速度で進んでいると、
濃い緑の木々の間に本堂の屋根らしきものが垣間見え、古色蒼然とした造りの大きな山門
が行く手に現れた。
高耶がまだ距離があるのに、バイクを降り、ゆっくりと近づいて行ったのは、いつのま
にか痛いほどに高まった胸の音と折り合いをつけるためだった。重たげな雲にまた切れ目
ができたのか、すっとひとすじ薄日が射した。
と、もう二メートルほどに迫った山門から、ぴょんと一人の少年が飛び出してきた。
八、九才だろうか、自分より丈の高い外箒を手にした彼は、一人前に藍染めの作務衣を
着て――しかし足元はゴムぞうりだった。
くるっと高耶に向けられた目が、つい、とホーネットに動いて、きらりと輝き、身体全
体がうずうずと嬉しそうに揺れた。その様子に笑みを誘われた高耶は歩みを止めた。バイ
クを固定して、ヘルメットを取り、不器用に笑いかけると、少年のふっくら丸い顔の中で
口元がにぱ、と半月形に開いた。
――人なつっこい子なんです。
不意に暖かい声が脳裏をよぎる。
――末っ子なので、皆がかまいすぎて。
目元を和らげて、直江は言った――。
鮮やかに浮かんだその笑みの記憶に少しひるんで、高耶は指先に力をこめた。いつか直
江が話した小さい方の甥であろう少年の笑顔を、もう一度見直すと、上の前歯が不自然に
欠けていることに気付いた。
「…ケンカ、か?」
高耶の口から思わず出た問いかけに、少年はうん?と口をへの字にした。一瞬空を見た
目が戻ってきて、にっと細まる。
「電柱と」
得意げに箒を上下させながら続ける。
「自転車で両手離したら、ぶつかった」
と、そこで、彼は不意に自分のいでたちとここにいる意味に思い当たったらしい。真顔
になって尋ねかけてきた。
「…っと…、こちらに何か、御用です…でしょうか?」
高耶は小さく間を取って答えた。
「橘義明さんは――今いる?」
少年の口がうすく開いて、困惑の表情になった。彼は先ほどまでのあけっぴろげな明る
さを失くして、もじもじと箒の柄をいじった。だが高耶が真剣に答えを待っているとわか
ると、幾分小さくなった声で、
「今は…いない」
と言った。
今、という単語に少し複雑な色が混じったのを聞きとがめて、高耶は重ねて尋ねた。
「じゃ…夜には?」
「夜…夜は…」
少年はますます落ち着かなげに、首を傾けた。
「夜も…いない。えっと…」
(どういうことだ?)
次兄との再会を機に、直江は実家へ戻った。
確かに猪飼はそう言った。
我知らず強くなった高耶の目に、少年は頬を赤くした。困りきったその肩に、不意の声
がかかる。
「…ヒロ!?」
山門から、すらりと背の高い少女が現れた。白いワイシャツの襟元をワインカラーのリ
ボンタイで結び、濃紺のはこひだスカートの制服姿。紺のショルダーバッグを肩にした彼
女が、きっと目を合わせてきた時、高耶は驚きに打たれた。
・ ・ ・ ・ ・
多分、直江は――いや、少年の頃の橘義明はこうだった。…そう、色部もそう思ったの
だろう。この少女は、直江の長兄照弘の娘、真知にちがいない。
「何か御用ですか?」
きりりと硬いその口調に、高耶は思い当たる。
橘義明は不在だと、電話で応じた声だ。
ぎしっと胸の奥が鳴る。
「橘義明さんに会いたい」
同じように硬くなった高耶の口調に、直江の姪はつかつかと二人に近づき、弟であるの
だろう少年をかばうように立った。
「叔父は不在です。あいにくですが」
冷静で硬いその口調が、不意に高耶の胸に刺さった。
この少女は、何故こんなに直江に似ているのだ。
魂は他人のはずなのに、この――冷たく人を拒む時の表情も口調も。
拒む。
直江が――。
――誰、を。
(オレ――を?)
ぞくりと体内を走るもの。
その痛みが高耶の目に浮かび上がった。
――『この沈黙は何だろう』
直江は…もう。
もう?
「アキ叔父さんは、ずっと行ってんの。一回帰ってきたけど、でもまた」
突然、少年の声が割って入り、高耶と真知の間の張りつめた空気を破った。
「ヒロキ!?」
少女の叱責のこもった声に、少年はびくんと飛び上がったが、ひるまず高耶を見返した。
そのまま姉に向けて言い返す。
「だって、この兄ちゃん、アキ叔父ちゃんに会いたいんだ」
「あんたは黙ってて」
低くなった姉の声に、少年は威圧された。真知は再び高耶に向き合う。
「義明叔父は、所用で不在なんです。いらしたことは伝えておきます」
おもて
きつく結んだ言葉じりとは裏腹に、少女の面がふと揺れた。ヘルメットを掴んだ若者の
顔から闘気が薄れ、さっと一刷け、翳りが射したのを認めてのことだった。
(少し前に…同じようなことを言った)
同じ事を言った場面、と少女は眉を寄せた。
高耶は手元のヘルメットへと目を落とし、それをかぶると静かにバイクに跨った。乗り
手の思いに呼応するように、すい、とスタートがかかってホーネットは滑り出した。
『この沈黙は何だろう』
しかし次の瞬間、高耶は現実に引き戻された。
「待って!」
駆動音を押しのけるような叫びは、高耶の耳に届きはしたが、すぐ身体の動きとは結び
つかなかった。
と、何か黒い物がひゅっと空を切って、左の肩先をかすめ、高耶の手は今度こそ驚いて
バイクを止めた。全開にはなっていなかったので、さっと停止したとはいえ、上体はぐっ
とのめった。
「な…に…!」
路上に落ちた黒い物が、ナイロン地のショルダーバッグ、先ほどまで橘真知が肩にかけ
ていたものだと高耶が気付いたのと、少女が彼のすぐ左に駆け寄ってきたのとは、ほぼ同
時だった。
「あぶねーじゃね…!」
「あなた、オウギタカヤさん!?」
真知は目を大きく開いて、ヘルメットの中を覗きこんできた。その瞳の色が――懐かし
いそれに似ている。
高耶は辛そうに目を細め、斜めにうなずいてみせた。
「そう」
少女は確認するように大きくうなずいた。
「アキ叔父はね、今、強羅にいるの」
高耶は、えっと真知を見直した。
「箱根の。
強羅聖母教会の神父様のところに。うち、お寺だけど、そこの鹿原神父様と祖父は昔か
らのお友達で、アキ叔父さんは小さい時も御世話になってたって」
真知は、さっと自分の投げたバッグを取り上げると、ノートと油性ペンを出し、高耶の
前で何かを描きはじめた。素早く動く手は、あっという間にどこかの駅を起点にした地図
をしたためた。
「これ、強羅駅。教会はここ。ガイドブックにも、たいてい載ってる。でも叔父さんは、
ここからちょっと離れた、元は神父様が私宅として使っていらした家にいるはず」
真知は弟二人を従えた典型的な『姉』だと、直江が言ったことがあった。きびきびと動
く手先ときりりとした顔つきを間近にして、高耶もそのとおりだと思う。美弥と同い年の
はずだが、『妹』の持つ甘やかさは匂わない。
しかし――。
「…なぜだ?」
ぼそりとつぶやいた高耶に、真知は目を上げ、ひとつ首を振った。
「神父様は教会の新しい司祭館に移られたけど、蔵書のほとんどがその家にそのままなん
で、整理を頼まれてるの。翻訳の仕事も前々から引き受けてて――」
「そうじゃない」
高耶は少女を見据えて否定した。
「話しちゃいけないことになってたんじゃないのか?」
真知は手を止め、強く高耶を見返してきた。目の中に様々な感情の色が踊ったが、一番
強いのは怒りのように思える。
「ええ、そう」
しかし声は平静だった。
「理由は――そりゃ、幾つもあると思う。あたしには解らないことが。でも一番大きいの
は、いなかった間どうしてたのかって変な好奇心で叔父の周囲に首を突っこんでくる人た
ちのせいで、あたしたちが嫌な思いをしないですむように、ここを離れたんだろうってこ
とよ。
子供の頃、しばらくそこに行ってたって言うのも同じ理由だったんだと思う」
真知は唇を噛んだ。
「なんで教えるのかって? そうね、教えたくなんかないわ。
でもそうしなくちゃいけないって気がするの。それだけ」
彼女は、ばりっと手描きの地図のページをノートから破り取った。ばし、と高耶の胸に
押しつける。
「西から崩れてくるって、空」
今は、はっきりと荒立つ目をあてて、少女はペンをバッグにしまい、砂ぼこりを払った。
「バイク、滑るわよ」
「…へまはしねーよ」
紙片を胸に収めて、高耶は丸い目でこちらをじっと見続けている直江の甥を振り返った。
「電柱とも地面ともケンカしねぇよ」
真知がちらりと苦笑したのを合図に、高耶は別れの印しに左手を軽く上げた。
ミラーの中で、ひょこひょこ振られる外箒が小さくなっていった。