水無月の紅玉
4 "血"の知る土地へ
来たばかりの道を東京まで戻り、ホーネットに給油したあと、高耶はガイドブックを買
って真知の地図と照らし合わせた。
少女の手は正確で、ほぼ箱根登山鉄道線の強羅駅周辺の図と重なり、強羅聖母教会も載
っていた。しかし高耶は目元を翳らせた。あの少女なら、前に高耶の電話を受けた時の言
づてを正しく叔父に伝えたはずだ。星加の家の所番地も、高耶の携帯の番号も、直江には
きっと届いているはずだ。
なのに。
『この沈黙は何だろう』
陽盛りも過ぎかけた東京の濁った空を見上げ、高耶は胸の内へ問いかけるようにその名
をつぶやいた。
東名に入り、横浜青葉のインターを過ぎる頃、さすがに高耶は疲れを覚えた。無理もな
いかと小さく息をついて、前方を見上げるとサービス・エリアの案内が見える。海老名ま
であと少し。混雑もしていないようだ。
しかし、高耶はスロットルを開いて分岐点を無視した。無理はしないと美弥に言ったこ
とを思い出したが、ぐんと勢いのついたホーネットに腿を締め直した。
少しでも止まったなら、胸に溜まってくる淀みに呑まれるような気がした。
御殿場で東名を降り、一般道へ入る。うねうねと緑濃い山道をたどって少しずつ上がっ
ていくと、身体にのしかかり始めていた疲労感がはがれていくように感じて、高耶は目を
見張った。
この身体には、もう一滴も流れていないはずの北条の血。
なのに流れこむ涼風のような生気は、彼をゆるやかに包み伝えようとする。
――ここは貴方の知る地、貴方を知っている地。
この山の連なりに、景虎の曽祖父の名を持つ山がある。その近くに――あの男はいると
いう。
強羅、と記された矢印の示す道へと乗り入れる頃には、鈍い夕焼けの兆しがあった。車
二台がやっと、の細めのくねった道を丁寧にさばいて上がって行き、ぐっと道なりに右へ
曲がると、不意に山肌は切れ、人の住まいの気配が始まった。
そのとば口、右手の雑木林の一叢の間に、古びた門柱とそれよりも更に年代物らしき木
製の看板が見て取れる。
『強羅聖母教会』
くすんだ肌色の壁と青い瓦屋根。年月を重ねた風情が、御聖堂の窓の木枠ににじむ。同
じく古びた掲示板の今月のミサの内容を報せる張り紙から、高耶は目を転じた。
教会の左手奥に、新しい小さな家が控えるように在る。
真知の言った新しい司祭館、という言葉を思い出す。
そのまま少し進んだところで、十字路に出る。高耶はバイクを降り、胸ポケットから真
知の描いた地図を取り出し、あたりを見やった。ゆるいとはいえ、山肌に開けた町、強羅
は左手の駅のある中心部に向け、上る傾きをとっている。昔ながらの企業の厚生施設も多
く、一つ一つの敷地が広い。庭木も年経たものばかりで、緑濃い中にそれぞれの建物がう
ずくまっているようだ。、道路はわりあい広く、手入れが良い。車で遊びに来る人間が多
いせいだろう。
真知の地図を開こうとした時、何かが高耶の背後からぶつかってきた。
「うあっ!?」
身がまえようとして――拍子抜けする。
はっはっはっ、という荒い息の音と獣くささ。
一頭のダルメシアン犬が、うひゃうひゃと喜びも露わに(と、見えた)高耶にじゃれつ
いてきたのだ。
「お、おい、うわぁっ!?」
前脚で首に抱きつかれ、バイザーを上げて露出させていた鼻をべろべろりん、と舐めら
れて、高耶もたまらずよろける。
「アンジー!! アンジー、こらっ!!」
あわてふためく声に、高耶が犬の肩(?)越しにそちらを見ると、五十代も終わりかと
思われる灰色のノーカラーの上着を着た男が、ぱたぱたと走ってきた。太い黒ぶち眼鏡の
上の広い額には汗がびっしょりだ。
「いやあ、すみませんっ!」
なめさせて、なめさせてー!とはしゃぐ犬から、上背をそらし逃れながらも、高耶は犬
の首からだらりとさがる青いリードに気付き、左足でそれを踏んだ。
いい判断だった。飼い主が追いついたことに気付いて、犬はぴょんと四足に戻り、この
楽しい追いかけっこを続けようとしたのだ。
「ああ、ありがとう! まったくこの子はっ!」
まだはしゃぎまわっている犬をめっと叱った男は、高耶がもぎ取るようにヘルメットを
脱ぎ、鼻からしたたる犬臭い液体をたまらず右手でぬぐうのを見て、あわててポケットか
らハンカチを取り出し手渡した。
「ごめんなさい、このアンジーは…」
と言いかけて、高耶のうへぇ、という顔をまじまじと見た彼は、ぷっと吹き出した。む
っとする高耶にあわてたように両手を振る。眼鏡の奥、細くなった目と大きな掌。柔和な
声で彼は続けた。
「すっごいメンクイなんですよ」
白いスタンドカラーのシャツの襟元に指を差し入れ、ぱたぱたと風を送りながら、男は
かがんで高耶の足の押さえていたリードを取り上げた。
「ありがとう、助かりました。身体は大きいんですが中身はまだ子供なので、はしゃぎ屋
なんです」
「そうみたい…ですね」
憮然としながらも、高耶は嬉しげに尻尾をふる犬の頭をぽんぽんと叩いた。
「もうちょっと…、奥ゆかしくな」
今、自分の来た道をアンジーとその飼い主がジグザグと行くのをちらりと見やって、高
耶はそのままバイクを押して十字路を直進した。
右手の角に大きな引き戸型の門扉。有名な電子機器メーカーの健保組合の保養所である
ことを示すブロンズ色のプレートを横目に、ゆっくり灰白色のフェンスに沿って進んで行
く。真知の地図は、この壁が長く続くことを記していた。
ずっと行くと、やがて丈高い常緑樹の生垣に変わって――高耶は息を呑んだ。
数メートル分生垣が切れて、吊り下げ式のアコーディオンゲートがはさまっている。そ
の奥に片屋根式の駐車スペースがあり、濃緑色のウィンダムが収まっていた。ふと運転者
の微笑の記憶が心を占めた。
高耶はバイクのシートに目を落とし、更に進む。再びの生垣は五メートルほどでまた途
切れ、青銅色の鋳物門扉が現れる。その少し手前の生垣に寄せてバイクを止め、ヘルメッ
トを置いた高耶は、目を閉じて大きく息を吸った。
その土地は、道路から三メートルほど下ったところから始まっていた。
かたんと門扉を押し開くと、数段下で右へ曲がり、更に数段下ってまた左、と自然石を
組んで作った階段を下りていく。幅広い段の両脇には、高耶の肩ほどの高さに整えられた
バラの木が続いている。赤い屋根の――大正から昭和初期に流行った、西洋への憧れと和
の伝統を合せた型の平屋の玄関へとたどりつく。
小屋根を持った広いポーチの両側には、待合と呼ばれる作り付けの木製ベンチがあり、
左手にガラス戸がはまった広縁とその向こうの雪見障子が見えている。右側には赤い尖り
屋根と――なんと煉瓦積みの煙突。そちらから家を回るように小道が伸びている。
庭につながっているのか、と階段を下りきった高耶はそちらへ目を向け、びくりと震え
た。
かがんでいたらしい白いシャツの背がゆっくりと立ち上がり、抱え上げたものを軽くゆ
すりあげて、こちらを振り向いた。白いワイシャツの胸に大きな黒猫を抱いて、男が高耶
を見た。
「直江」
かすれた声でその名を呼ばれて、男は目を和らげて微笑んだ。
と、腕の黒猫に目を落とし、また少し腰をかがめてそれを下ろそうとした。だが猫は嫌
がって、そこだけ白い足先で彼の胸をきゅっきゅっと押した。
かっと熱くなる頬に驚いて、高耶は胸元に手をあてた。どくん、と身の内を奔ったのは
激しい嫉妬だと気付いて、ごくりと唾を飲む。
何かなだめるようにつぶやいて、男はようやく猫に下りてもらえた。大きな猫だった。
そのあたりの猫の一倍半はある。つややかで真っ黒な巨体の前足の先だけが、くっきり白
い。しかし老猫なのか、動きがのったりとゆるい。
「タビ、というんです」
チャコールグレイのズボンの裾に、なおも額をこすりつける猫の頭を優しく撫でて、男
は身を起こした。
「年をとってから急に甘ったれになって…。隣の管理人さんの飼い猫なんですよ」
穏やかな声をひとつひとつ必死で耳へと拾って、その響きに陶然としながらも、高耶は
ふつふつと焦れを感じる。
ようやく彼が目を戻してきた。
柔らかく流したわずかに淡い色の髪の下、端整な顔立ちの中の鳶色の瞳に斜めに西陽が
さす。あの黒いスーツもネクタイもない今、直江はとても若く、初夏の庭にふさわしく見
えた。
「お父さんのこと、大変でしたね」
口元から笑みが消えて、彼は目礼した。
「御悔み申し上げます」
「んっ、っあ、いや…」
何の言葉も交さないうちから、現実の重さの方へ押し出されたように思えて、高耶は戸
惑った。
「ああ…、花、ありがとな。何の礼も…」
花、と小さく相手の唇が動いて、どこか疑問形の響きを帯びる。えっ、と高耶の口元も
まどった。
「花…白い…」
もう一度言いかけた時、ぎゃわぎゃわと耳慣れた(ような)騒音が、頭上の道路の方か
ら近づいてきた。
と、思った途端、黒と白の旋風が階段を駆け下りてきた。そのまま、わほん、と直江に
しなだれかかったのは、先ほど高耶の顔をべろべろにしたダルメシアン犬のアンジーだっ
た。
「うわっ!」
直江は後足で立ち上がった犬に、ほぼ抱きつかれる形になったが、何とかその下顎を手
で押さえて熱烈なキスは防いだ。
「アンジー!」
またまたのあわて声が後を追ってきた。
「義明君! …ああ、すまんね」
「神父様」
階段を下りてくる来訪者を見上げ、直江が笑った。
再び、ずん、と胸を突く苦みに高耶はぐっと左手を握りしめた。
「つなごうとしたところで、また逃げられてしまって…おや?」
アンジーの飼い主、今は神父とわかった相手は小首をかしげて微笑んだ。
「あ? 義明君の知り合いの方だった…ああ、甥御さん? 世田谷の方の…」
「あ、いえ…」
直江は犬の首に指をすべらせて、ぐっと革紐を掴んだ。
せんせい
「佐々木医師…、覚えていらっしゃいますか?」
つい最近聞いた名だ、とちらりと考えてから、高耶はそれが色部の前生を示すことに気
付いた。
「ああ、昔、君に会いにいらしてたね。優しそうな…」
「あの方の御親戚で――仰木高耶さんとおっしゃるんです」
さらさらと嘘を言い、促す直江に高耶はちょっと目を大きくしたが合わせておくことに
した。うっそりと神父に目礼し、はじめましてとつぶやいた。
「いやいや、もうウチのメンクイのはねっかえりが御迷惑をおかけしたあとですから。鹿
原といいます。そこの教会のね」
神父は笑いじわの中に目をうずめて、中背の身体をゆすった。
「ああ、バイク! そうだ、上に止めてありましたね。ツーリングですか?」
か お
目の端で、直江も聞き手側に立った表情でいるのを認めて、高耶は軽く眉を寄せた。
「…いえ、進学のことで、少し――実際の場所を見てみようと思って」
低く、だが淀みなく言う。大検にもまだ受かっていない身だとは、言う必要ないだろう。
じゃ、と会釈した神父は直江に目を転じ、つっと視線を下げた。直江にまだじゃれつく
アンジーの狂態を尻目に、黒猫タビは直江の足元に身を寄せている。その喉を優しく撫で
上げ、ぐるぐると音高い返礼を受けてから、鹿原は犬のリードを直江から受け取った。
「あ、と、そうだった、義明君。アトレッティさんが来月の会議に来られるよ」
人名らしき横文字は、高耶には耳慣れない語感だ。
「ヴァチカンには公式通訳がいるでしょう? なぜ…」
・ ・
いぶかしげな直江から出た横文字の方は、聞き覚えだけある。
ヴァチカン――カトリック教徒の総本山、小さな小さな国。
「姉妹会のシスターたちが過労で相次いで倒れてね、アトレッティさん、志願したらしい。
君に会えるのを楽しみにしてると伝えてくれって」
名残惜しげなダルメシアンをくいくいと引いて、鹿原神父は門扉へと上がっていった。
何とはなしに見送ったあと、高耶は直江に目を戻したが、彼はまだ神父の背を見ていた。
数瞬遅れて高耶を見やった彼は、また淡く笑った。
「大学の下見にいらしたんですか」
マイナス
さらりとしたその言葉には、何ひとつ負なものは含まれていないのに、高耶は下ろして
いた左手をぴくりと揺らした。
「ああ」
うまく笑えなくて、繕うために直江の足元の黒猫に目をやるが、相手はバリバリの敵意
を示して高耶をねめつけた。
「…あの人…ええと、今の神父さん。…昔っからの知り合いなんだって?」
しかたなく継いだ言葉に、
「ええ、子供の頃から、随分御世話になりました」
いざな
直江はゆるやかに黒猫から足をかわして、ポーチへと高耶を誘った。
「中でお茶でもいかがですか?」
先へ立った背に高耶はまどう目を向け、後を追う。
洋風のポーチなのに、玄関は摺りガラスの入った二枚の引き違い戸。しかし明るい茶の
アルミサッシ製だ。カラカラと開けて、すぐの土間床は玉砂利洗い出し、式台は一枚松杢
板で昔のままのようだ。正面と左に廊下、右はすぐにオーク色のどっしりした木彫の施さ
れたドア。そちらへと、
「どうぞ」
直江が招き入れる。高耶は思わず感嘆の声をもらした。
尖り屋根と煙突で連想したとおり、そこは洋風――しかも真剣にコピーした時代に作ら
れたであろう応接間だった。
入って右に、古めかしいマントルピースを持つ暖炉。その前に大きなL字型と二人がけ
のソファセットが、細かい細工の年代物らしきキルトカバーをまとってどっしり構えてい
る。正面には、オークブラウンのベンチのあるアルコーヴと庭へ出られる優雅なフランス
窓。左側にはアップライト型のピアノが据えてあった。珍しい深い赤茶色の仕上げで、や
や陽に焼けた白のレースカバーがかけてある。白地に淡い水色の小花の散った壁紙、カー
ペットはまろやかな青灰色の天津絨緞。天井の高い綺麗な部屋だった。
暖炉の側にワゴンがある。直江がかぶせてあった白いナプキンを取ると、紅茶道具一式
がセットされていた。
「お湯を用意してきます」
くつろいで下さい、とポットを手に直江がドアへ向かう。高耶は、半歩、その背を追い
かけたが、そのまま見送った。
ぼんやりとフランス窓に近づき、ドレープを寄せて止めたベルベットカーテンの間から、
レース越しに外を眺める。
芝の美しい広い庭。ほどよく茂った藤棚の下に、あせた水色の陶製のスツールとテーブ
ル。その奥に白樺の林が始まり、更に奥の雑木林につながって、隣の保養所の屋根がわず
かに見えている。芝の庭の左手は、ゆるやかに下っていくようだ。
夕の光に彩られた夏の庭を見つめながら、高耶はゆっくりとドアにもたれた。右の前腕
に額をあてる。
――炎の中で聞こえた――欲しかった声
――月光を背負った影の発したいとおしい声
高耶はそっと左の胸ポケットを押さえた。
――生命の証のような白い珠を掌に渡して、囁いた声
焦がれた。待っていた――。
そうして、やっと会えたのに――。
あまりに穏やかで、あまりに静かで…。
どうしてだろう。まだなにひとつ、おまえの声を聞いていないような気がするのは…。
・ ・
(これは本当なんだろうか)
高耶は瞳を揺らした。
(オレは現実の中にいるのか?)
また――夢を見ているんじゃないか…? あれは本当に直江だったのか?
都合のいい夢にまた逃げ込んで、作り上げた優しい姿だったんじゃないのか?
オレは――!
「高耶さん」
呼びかけに心が震えた。あまりの"怖さ"が、高耶を振り向かせた。菓子類を乗せた大
盆とティーポットを手にした――彼がいる。
くゆる湯気の向こうで、直江が笑う。緩やかな波が部屋を満たす。
「どうぞ」
暖かいまなざしが促した。