水無月の紅玉
5 柔らかな場所
ぎくしゃくとソファに座ったものの、いざ目の前に食べ物を並べられると、高耶は自分
がいかに空腹だったかを悟った。
最も、向かいに座った男には、そんなこと全てお見通しだったのかもしれない。
厚く切られた三種のパウンドケーキがするすると消えて、いかにも手作りといった風情
のごつごつしたロックケーキも、直江の皿から全部高耶の方へ移った。カップを手に、お
かしそうに見やる男の目にやっと気付いた高耶は、少し赤くなった。
「…なんだよ」
「いえ…」
別に、と言いつつ、くすっと笑って目を伏せる顔が整いすぎていて嫌味だ、などと思っ
てみて、高耶は既視感を覚えた。
この姿で初めて彼と言葉を交した日――ファミレスで自分に遅い朝食を取らせながら、
やはりこんな風に直江は微笑った。
あの頃のようだ…。
何も知らなかった自分。
優しく見守り導いた直江――。
「幾つぐらい見る予定ですか?」
突然の彼の問いかけに、高耶はえ、と口の動きを止める。
「大学ですよ。都内の方ですか?」
高耶は口の中のものを飲み下す時間があってよかった、と心のうちでつぶやいた。
「…も含めて…四校ぐらい…だな」
「本命は?」
教師みたいな聞き方だな…と唇を尖らせかけたが、高耶は答える。
「…一応、あ、あくまで願望な。大検もすんでないし…」
とりあえず、と念を押す。
「東河大をまず見てみたい」
大学の下見云々は、ほとんど大伯母への口実のようなものだったが、これだけは密かに
考えていたことだった。
直江が手を止めた。
「開成町の? 私もそこです」
「え!? だっておまえ、学生の時も宇都宮にいたようなこと、言ってただろ?」
直江は軽く目を流し、ああ、とうなずいた。
「はじめ、宇都宮の単科大学に入ったんです。仏教系の。二年次の終わりに東河に経営が
移って、組み込まれたんですよ。丁度、長兄の仕事の手伝いも始めたので、週半分を東京
で過して開成の方へも通いました。宗教学を専攻しましたが、、周辺の文化も含めてかな
り勉強させてもらいましたね」
明治初期に美術学校として創立し、すぐに芸術大学に、そしてそれを育て支えるという
発想から、教育学、社会学、法学、更には理系の方向へもと次々に学部を開設し、活気あ
る総合大学に発展した東河大学。それは神奈川県西部の開成町に広大な敷地を有して、学
園都市を築いている。進取の気象に富んだ柔軟な姿勢のそこには、ユニークな奨学生シス
テムがあり、それが高耶の考えにかなうように思えたのだ。
しかし、直江もそこを学び舎にしていたとは。
「東河はここから近いですが、都内は――」
高耶のあげた幾つかの大学名を聞いた直江はつぶやくように言うと、目を上げた。
「当然、何日間か予定していらしたでしょうけど…宿は決めていらっしゃるんですか?」
高耶の表情に彼はうなずいた。
「よろしければ、ここを使われては?」
「え…?」
直江は高耶の空いたカップに紅茶をつぎ足した。
「私も引き受けた仕事の都合で預かっている立場にすぎませんが、お泊めする余裕はあり
ますよ。
交通はすごく便利とまでは言いかねますが、小田急線に出てしまえば――」
(――すがるような目をしているかもしれない)
そんな風に自らを嘲りながらも、じっと見つめる高耶のまなざしの先で――直江は変わ
らず優しい物腰で、自分のカップを持ち上げる。穏やかに合わせた視線が問いかけへの返
事を待っているのだと、ようやく気付いて、高耶はぼそりと答えた。
「すげぇ助かる」
玄関から真っ直ぐ伸びた廊下を中心に、右側に今の応接間――これは大きな正方形をし
ていて庭へせり出している――、次の間と続く座敷と二つの和室が並ぶ。左手は上がり口
から続く広縁とその先のトイレ、掘りごたつを切った茶の間と広い台所――幸子大伯母の
家のそれと驚くほど似ている――と風呂場。外に面したガラス戸は全て明るい茶色のアル
ミサッシに替えてあるが、内部の建具、表具や欄間、襖などは年経た物のままだ。
案内に立ちつつ、直江はある文豪の名を出した。
「その方の娘さんが長く住んでおられたのですが、聖母教会の会員さんでしてね、台風で
倒壊した司祭館の代わりに、と、ここを教会に託されたんです」
つい最近まで、さっき会った鹿原神父がここに住んでいたのだと言う。けれど持ち主が
亡くなって相続問題が起き、ごたついたのをきっかけに、以前の場所に司祭館を建て直す
ことになった。さて由緒あるこの家を何とか日本文学史の遺産として保存できないだろう
か、と教会は行政に働きかけたが、反応は芳しくなかった。いろいろ補修が成されて、建
った時の姿そのままではなくなっているので認可が下りにくいというのだ。
あ に
「長兄が交渉役になっていたんですが――切れてしまいましてね」
直江は座敷に高耶を招き入れた。
「結局ここを買い取ってしまったんですよ」
青畳の香りが心地よい。次の間との境、天井近くに枝に遊ぶ小鳥たちの木彫を施した欄
間、襖絵は墨絵の竹林。黒光りする床柱、一段高く広い床の間には飛翔する鶴の描かれた
掛け軸がかけられている。入って正面の雪見障子を開くとガラス戸に囲われた広縁が現れ、
目線の先、芝の庭の中ほどに三つの苔むした大石が配してある。
夕空が濃くなってきた。直江は風を通すから、と言ってガラス戸をあけ、また戻ってく
る。
「ここを使って下さい」
彼がぱちんと紐を引いて灯した明かりに目をしばたかせて、高耶はあわてた。
「…ここ座敷だろ…? いいのか?」
直江が小さく声をたてて笑う。
「若い人のセリフじゃないですね」
赤面してむくれた高耶の脇をすりぬけて、彼はまた廊下に出る。つきあたりの小さな目
だし窓のついた引き戸を、カラリと左へ開いた。覗いて高耶は、うあ、と声をもらした。
右側へ曲がりつつ少し下っていく廊下。
「渡り廊下か?」
「ええ、離れがあるんです。土地が斜めに下っていくので、母屋より低いところになるん
ですが」
クリーム色のカーテンはあるが、今はあけはなされている。右側のガラスに映る自分を
見ながら、高耶は直江について廊下を下る。再び引き戸が開かれると、母屋と同じガラス
戸に右を区切られた広縁が、部屋を直角に回る形で続いていた。
角で折れて左の雪見障子を直江が開くと、三面の壁を本棚でほぼ埋めた広い書斎が現れ
た。例外は明り取りらしい正面中央の窓と、右側の奥にドア、その手前に引き戸がある。
「奥はユニットバス、手前は隣の寝室に通じています」
正面の窓のところにシンプルなデスクがあり、パソコンが据えてある。
「ここは少し前まで、鹿原神父様が使われていましてね、新しい司祭館に持っていけなか
った研究書類を、大学に寄付する分、修道会に寄付する分、廃棄する分に分けているんで
す」
なるほど、左壁面の本棚はほぼ空になっており、その前の床に分けられて小山を築いて
いる。
「…翻訳もしてるって?」
誰に聞いたのかと訊き返されるのを予想して、高耶はぼそりと尋ねたが、直江はさらり
と答えた。
「宗教学の文献のために、少し語学が必要だったので。
国際会議の資料や報告書ぐらいですけどね、やると言っても」
さあ、と促すように彼は廊下へ出た。
「食事の時以外は、だいたいこちらで過しています。
――ああ、少し早いですけど、夕食にしましょうか」
母屋へ戻り、電話は台所の近くにあり、インターフォン、子機で、玄関、離れと繋がっ
ていると教えたあと、直江は高耶の上から下へと目を流した。
「お風呂、使われた方がいいですね」
「え…」
そんな匂う?と赤くなってTシャツに鼻をあてる高耶に、彼はくすっと笑って首を振っ
た。
「そうじゃないんです。高耶さんが喜ばれると思うものがあるんですよ」
台所と廊下をはさんだ大きな曇りガラスのはまった戸をからりと直江が開くと、昔風の
広い脱衣所だった。
ほのかに香る匂いに高耶はあれ、と目を見張った。それは更に奥の戸を引いた時に確信
になる。
「…温泉?」
「御名答」
白と水色と藍、小さなタイルで仕上げられた昔風の浴室に漂うのは、確かに温泉の匂い
だ。すっかり綺麗になって乾いていても、この匂いは間違いない。直江が浴槽のカランを
ひねると、かなりの熱気を伴った湯がどぼどぼと溜まり始めた。
「ここの敷地内に湯脈がありましてね、隣の保養所に貸しているんです。その代わり、汲
み上げたそれをこちらでも好きに使えるように、管が引いてあるんですよ」
タイルの浴槽は大きくて、大の男が身を伸ばしきってもまだ余裕がある。たっぷりとし
た湯に浸かってみると、身体がきしきし言って、今日こなした距離を高耶に思い知らせる。
シャンプーも石鹸も同じメーカーの新品で、ベビーピンクで甘い匂いがする。
直江の好みとも思えないが、と少し閉口しつつも、それを使ってツーリングの汗と汚れ
を落とし、脱衣所へ出ると、これも新品らしいバスタオルが置かれている。気候を考えて、
一応用意してきていた着替えに袖を通して、髪をふきながら台所へ入ると、流しから振り
返った直江が、おや、と鼻をうごめかせた。
「ああ…、アプリコット、とか言ってたな」
もらした独り言を聞きとがめて、高耶はまた、くん、と前腕を嗅いだ。
「…アプリコット…って、杏、か? これが??」
星加の家に満ち満ちていたジャムの香りと比べて、高耶は渋面を作った。
「こんな甘ったるい匂いとは違うぞ」
「姉が掃除したついでに置いてくれたんですけどね、私はこちらを使っていないので。離
れの方は、もっと緑の…ヤロウやバーチの香りのものです」
「野郎…?」
疑わしげに聞き返した高耶に、碗に汁物を注ごうとしていた直江は吹き出した。
ヤ ロ ウ バーチ
「のこぎり草や白樺…、古くからの薬草種ですよ」
少し早いですけど、と促された茶の間の卓上には、所狭しと和風の家庭料理が並べられ
ていた。
驚く高耶に、実家が沢山持たせたのと司祭館で賄いをやっている人が差し入れてくれた
ので、と説明して、直江は筍御飯の茶碗を手渡した。
「暖めたものだけで、すみませんね」
向けられた笑みに、今度はぎこちなく笑みを返せた。
夢は見なかった。
声で突然、眠りから覚めた。
懐かしい声――。けれど、それは自分に向けられたものではなかった。
「そうですか…。少しせわしいですね」
落ち着いた低い声。目を開くと見慣れない照明器具。
えっ?と高耶は飛び起きた。
座敷の真ん中にのべられた真っ白な寝具、枕元には彼のバッグが置かれ、昨日、風呂で
手洗いしたはずの衣類がすっかり乾いてたたんである。
えーと、と額に手をあてると、アプリコットソープの残り香。食事して――どれもうま
かった――途中で急に眠くなって。
廊下で再び声がした。
「ええ、わかりました。明日の朝までには送れると思います」
襖をそっとあけると、直江は振り向いて受話器を置いた。
「ああ、騒がしくて申し訳ありません」
昨日と同じような装いで、彼は今取ったばかりらしいメモにちらりと目を落とした。
その頭の上の掛け時計を見て、高耶は唸った。
「十時五十分じゃ、謝られる資格ねーよ」
「お疲れのようでしたからね」
厚いバタートーストにサラダ、ベーコンエッグ。熱いコンソメスープからはパセリの匂
いが香り立った。手早く並べられた朝食の誘惑は強く、高耶は洗濯物の礼もそこそこにス
ープをすすった。
コーヒーを入れる、と立った直江は、湯を沸かす間にも数本の電話に呼ばれて廊下に出
る。こちらには親機しかないらしい。何か急ぎの仕事があるらしく、ひっきりなしに色々
な場所からかかっているようだった。
「忙しいんだな」
結局、食事を終えてしまった高耶が、後片付けの合間にコーヒーを入れ、戻ってきた直
江のためにカップに注いだ。
「すみません」
そのまま、台所にあった折りたたみの椅子を引き出して、二人は熱いコーヒーを口に運
んだ。
「来月初めに準備会議を開いて、秋に様々な宗教から二十団体の参加で、国際的な――相
互理解を目的とした集まりが行われるんです。しかし、なかなか中立を信じてもらえる翻
訳者や通訳がいなくて」
「おまえも坊さんなのに?」
「学生の時の論文の幾つかで、少々買いかぶっていただいているだけですよ」
直江はさらりと言うものの、世界の宗教間の確執は、この小さな島国ゆえの寛容といい
かげんでは理解しきれないものがある。その中にあってなお、認められ頼られるという立
場に彼はあるようだった。初めて知る一面だった。
「…オレ、東河に行ってみる」
「電車なら、強羅から箱根湯本で小田急線に――」
さえぎるように、バイクで、と言った高耶に、直江は首をかしげた。
「今はちょっと上がっていますけど、また降ると思いますよ、今日は」
「いい、平気だ」
案じる口調に少し意地になる。肩を怒らせて手早くカップを洗うと、高耶は慌しく出仕
度を整えて玄関に出る。
その手の先に、すっと紙片が差し出された。
「ここの電話番号です。降ってきたら連絡を下さい」
迎えに行きますから、と結んだ彼に、高耶が言葉を返そうとした時、また廊下の奥で電
話が鳴った。
言葉を逸して、高耶は外へ飛び出していった。