水無月の紅玉
6 穏やかな迷図
(なにをやっているんだろう)
鈍いまなざしで、ついに泣き出した空を見やって、高耶は左へカーブしつつ上がって行
く坂を断念し、道路脇の大木の下にバイクを寄せた。夏に向かって茂った緑の枝々が、避
難場所を提供してくれる。
何も考えずに走り出して。
山道で迷子か。
「馬鹿みてぇ」
天を仰いだ瞳を閉じると、夏の庭を従えた彼が瞼の裏に鮮やかで――どうして泣きたく
なるのだろう。
優しいまなざし、深い声、暖かい言葉。
苦しい夢とは違う――生きた直江。
ひとつひとつ、仕草に言の葉に気配に。全身で感じる。
・ ・
これが欠けていたんだと。
阿蘇の大地は、身体に助力をくれた。故郷とそこにしっかりした根を持つ人々は、休息
の場所をくれた。
どちらにも感謝している。けれど、今心にある灯のようなものは――どちらがくれたも
のでもない。
けれど――。
高耶はヘルメットを取って胸元に抱え込んだ。
目を閉じると、ヘルメットに押されて左胸のポケットのあの珠の形を肌が感じ取る。
(何を…いったい)
瞼にぎゅっと力を入れて、より強く母珠を押し付ける。
(何に――焦れてる…?)
高耶が溜息をひとつついて、目を開いた時、坂の上の方から短い悲鳴のような声が耳を
打った。
驚いて振り仰いで、高耶は目を丸くする。
カナリア色とレモン色の球体が、ぼてぼてごろごろと幾つも坂を転がり落ちてくる。
「うそだろ!?」
うろたえたつぶやきとともに路上へ飛び出ると、無意識に放った<力>の名残りが、降
ってきたそれら――オレンジとグレープフルーツの一群――をつかの間止める。その間に
高耶は果物軍団の下方に陣取り、三分の二は身体で押さえることができた。
「あらまあ!!」
「ありがとう、坊や!!」
坊やぁ?と気が抜けかけたが、坂を見上げると、可愛い小花模様の作務衣を着た二人の
老婦人が、ぱたぱたと駆け下りてくる。
「紙袋破れちゃってー!」
「まあ見事にころころり〜ん!」
老婦人たちは、しかしきらきらとはしゃぐような少女声で、あはあは笑いながら高耶の
止めた果物を拾い上げる。
ちょっと森野紗織を思い出した高耶だが、更にもう一人の老婦人が助勢に現れたのを待
って、逃した幾つかを拾うために坂を駆け下りた。
「あー、随分濡れちゃってー!」
「さぁさ、脱いで脱いでー!」
レインスーツだけならともかく、Tシャツまで剥ぎ取られそうになって、高耶は慌てて
善意だらけの手の波からすり抜けた。
坂の上にはこの三姉妹の一人の家だという、こじんまりとした山荘が建っていて、果物
を助けてくれた御礼よ、雨宿りして行きなさいよ、と三種のきらきら声に彼と愛車は連れ
てこられてしまった。
「暖房入れてるけどー」
・ ・ ・
「山はしけるのよー」
「おこたもしまえないのー」
あたしたち年寄りだからぁ、と声をそろえて、きらぎらしく三姉妹はおっしゃる。
とても――お元気だ。
「車、転がしてお買い物してきてー」
玄関脇のそれは、巨大なシルバーグレイのパジェロ。
「荷物、下ろしてたら雨でー」
ダンボール箱三個のそれは、結局高耶が運び入れた。
「もうもう、紙袋破けてー」
とても元気でよく似た御三方は、正直高耶の如き若輩者(?)には見分けがつかず、そ
れぞれ雪のようなふんわりとした白い頭に入れているカラーメッシュで、こっそり区別す
るしかない。
紫さんが山田さん、オレンジさんが田中さん、緑さんが荒井さんといって、この人が山
荘の持ち主らしい、と頭に入れる。
高耶はリビングの真ん中、キルティングの敷物の上の大きなこたつにほうりこまれて、
降るような茶菓の歓待を受けることになった。
「遠慮しないでー」
「若い人は沢山食べないとー」
「大きくなれないわー」
…これ以上?
夜になる前にやむといいが、と思った雨は、本格的に降る気を固めたらしい。接待を受
けているだけでは間が持たず、高耶は高いところにある照明の備品を交換したり、がたつ
いた食器棚を止め直したりと、老姉妹にはちょっとばかり面倒な雑用をこなしながら、ず
っと外をうかがっていた。雨音は続いている。
自分の携帯もずっと離さずにいるが、鳴る気配はない。直江の渡してくれた紙片も、そ
のポケットに収めてあったが、ひっきりなしに鳴っていたあの家の電話を思うと、踏み切
れない。
ぐるぐる回るばかりの考えに、高耶は首を振って、壁のフックを刺し直して額をかけた。
夕方と言える時間は過ぎた。
三姉妹は、ごはん食べていけばー、とまたコロコロ笑うが、そこまで甘える訳にはいか
ない。
高耶はまた入れてもらったカフェオレを飲み干して、ひとつひとつゆっくりと直江の家
のナンバーを入力した。
ファクスの自動受信の案内のあと、呼び出し音一回でつながった。
『高耶さん?』
問う声に力が抜けそうになった。
『高耶さん? どこです? 濡れていませんか?』
「あ…、うん、オレ…」
やっとのことで返した声は、間をはずした。高耶はきまり悪げに、迷子になって雨に降
られたこと、ひょんなことから個人の山荘に厄介になっていることを伝えた。行き方を聞
くから、主人に代わってくれと直江が言うのに従う。緑メッシュの荒井さんは楽しげに色々
答えたあと、名残り惜しそうに高耶の手に携帯を返した。
『すぐ行きます』
優しい声が耳の中へすべりこんで、通話が切れる。胸の真ん中へと転がり落ちて、小さ
な灯のようだと思った気持ちに合流する。
「すってきなお声ー!」
荒井さんのうっとりした様子に、あとの御二方が興味をかき立てられたらしい。
「…素敵なお声の――タチバナさん? あら、ひょっとして」
「そーよ、アコちゃんが騒いでた方じゃない? 先週、聖母教会でお話しして下さった、
って方――」
しらみね
「ああ、白嶺女子学院聖書研究会、"ノックアウト"ね」
けげんそうな顔をした高耶に、御三方が説明をくださる。
強羅駅の北側にある白嶺女子学院は、幼稚園から大学までの一貫教育のミッションスク
ールで、中等部と高等部がここに在る。そこの聖書研究会の少女たちは、月に一度、聖母
教会での勉強会に来るのだ。山田さんの孫の一人がそれに入っていて、前回の勉強会に僧
籍を持つ青年がやってきて色々話を聞かせてくれたと、見事に舞い上がっていたのだと。
「今度のお菓子クラブの作品をお届けしちゃう〜なんて、浮かれてたわー!」
「まーまー、青春ー! で、今、その方が見えるのねー!」
楽しみ楽しみ、と、これもまた舞い上がる三姉妹に、高耶は少し気後れを感じた。
現れた青年は、三姉妹の御期待に見事に応えた。
礼儀正しくあっという間に、彼は話をまとめてしまった。
いわく、
「この雨では無理ですから、バイクはこちらに預かっていただきましょう」
「え!?」
「晴れたら、取りに。そうさせていただくしかないでしょう?」
愛想良く、だが三姉妹の熱っぽい歓迎に巻き込まれることなく、の直江に、手馴れた人
の捌き方を見て、どこか懐かしく、しかし見知らぬ者のような気持ちも抱いて、高耶はま
た落ち着かない。
それでも久しぶりに座ったウィンダムの助手席に、ふと溜息をもらす。暮れかけた山道
を下りながら、ラジオから流れるイージーリスニングの調べに、しばし身をゆだねた。丁
寧なハンドルさばきを目の端にとらえながら、心地良い沈黙に包まれる。
(…何も起きなかったようだ)
甘えていいのだと笑いかけられ、反発し困惑しながらも受け止めてもらえる、見つめて
いてもらえるという安らぎの波に触れて――心を覆った頑なさが、溶けていくのを恐れた
あの日々。今、思えば、訪れた奇跡に戸惑っていた日々。だが。
高耶はドアに肘をついて左手に頬を預けた。
心地良いのだけれど、今。――でも。
直江を振り向こうとして、高耶が顔を上げたのと同時に、彼が言った。
「食べて帰りましょうか」
「…んっ?」
「美味しいところが幾つかあるんですよ。いい魚のところは定休日なので、肉の方でとっ
ておきのところへ」
微笑みはとても優しいので――高耶は目をそらして、ぶっきらぼうに頷いた。
戻った強羅の家では、電話が留守録に入った「用件」を報せる点滅を繰り返し、ロール
式のファクス用紙はうねうねと廊下を這っている。
パソコンの方も見てこなくては、と一言わびながらも、離れへ急ぐ直江の背に、高耶は
また言葉をかけそこねた。
慌しく戻ってきて、自分の世話を焼こうとする彼に、今度は何とか、子供じゃないんだ
からと言い返して、仕事をしてくれ、とも強く続けた。すまながりながらも母屋の戸締り
を確認する直江を視野に入れたくなくて、風呂借りたらすぐ寝るからかまわないでくれ、
と浴室へ向かった。
それでも出てくれば座敷にきちんと床がしつらえてあり、その上に身を横たえて高耶は、
今日彼と交した言葉を思い返した。
ロッキーの山小屋を模したというレストランは、ざっくりして気の張らない雰囲気で、
そこそこに混んだ店内には食を楽しむ明るさが満ちていた。
――何を話した…?
笑顔の直江に何を話したっけ。
他愛ない日常の――穏やかで。
心地良かった…はずだ。
けれど何を話したのか――細部が思い出せない。
ずっと彼を見ていたのだけれど――。
ずっと。