水無月の紅玉
7-1 初夏の白
コ…ン…
カ、コッ…!
短いが力強い音に、高耶は目を覚ました。
パジャマ代わりのTシャツとハーフパンツのまま、ぼんやりと庭の方へ目をやる。広縁
の向こうのガラスは、雨戸ではなくカーテンで外界を閉ざしている。
コン…ッ!
淡いクリーム色のカーテンを開くと、昨日からの雨に濡れそぼった庭。まだ朝は早い。
高耶はガラス戸も開いて、沓脱ぎ石の上にある雪駄を借用した。ふと左側の離れの方を
見ると、そこの広縁もカーテンが開いており、書斎が垣間見えた。
コン!
音は右手の応接間の方からする。高耶は雨の芝生に踏み出した。雨を含んで冷たい芝の
上をざくざくと歩くと、応接間のフランス窓から出るウッドデッキが見えた。庇というよ
りは、ほぼ屋根、の下で、直江が片膝をついて鉈をふるい薪を割っていた。
「高耶さん?」
「あ…あ、おはよ」
庭から近づいた彼に、直江はわざとらしい渋面を作って見せた。
「そんなに濡れて…。中から回ってくれば…」
そこで、くすりと笑い、身を起こした。
「すみません、起こしてしまいましたか。気をつけたつもりでしたけど」
「そんなんいいけど」
ブリキのバケツに入った木片に、高耶はふうん?と首をかしげる。
「たきぎ…か? こんな季節に?」
口にした途端、思ったより寒いと身体が訴える。ぶるっと身を震わせた高耶に、直江は
また微笑んだ。バケツを持ち、どうぞ、と応接間へ彼を誘う。
庭から屋内へ一歩入って、高耶は、え、と目を見張る。柔らかくぬくもった空気。暖炉
に火が入っていた。
「庭の奥、下っていく方に小さな流れがあるんですが、それに合流する水脈がこの部屋の
下をかすめているらしくて、この時期の湿気はすごいんです。だから夏でも時々火を起こ
すんですよ。山は底冷えする時もありますし」
もっとも、と言いつつ、彼は暖炉の前の敷物にバケツを置いた。
「もうすぐここも塞いでしまいますけどね。町中では、もうこういうものは維持できませ
ん。今、外壁に寄せて積んである薪が終わるまでです」
彼がかがんで火掻き棒を炉火に突っ込んで動かすと、火が勢いづいた。
照り返しを受けたその横顔に疲労の翳りを見て、高耶ははっとする。そういえば、昨日
のままらしい皺のよったワイシャツとスラックス――。
「…寝てないのか?」
直江は高耶を見上げて、口端を上げた。
「ひとつ、急ぎの仕事が飛び込んだので、もたもたしていたら寝そびれてしまって」
何でもないことのように言う目元の影が濃い。
胸の中がぎゅっと詰まるような気がして、高耶は彼を見つめたが、直江は笑んだまま火
へ目を戻した。
「半日だけでも、湿気払いに火を入れておこうと思いましてね、ごそごそしていたらあな
たを起こしてしまった」
「…いいんだ、そんなの」
もう一度否定して、高耶は明るく言おうとつとめる。
「オレ、今日はちゃんと電車で行ってくる。おまえ、少し休んだ方がいい」
大丈夫ですよ、と言う直江から、朝食を用意する役を奪い取って、パンに卵、グリーン
サラダにコーヒーと、ホテルのようなメニューを茶の間に運んだ高耶は、すまながる彼に、
「心配しすぎだ」
と目を尖らせた。そうしながら、向かい側で笑む瞳とマグカップに触れる唇に吸い寄せ
られる目線を引き剥がす。
長く欠けていた何かが――埋められたと感じた内側で――再びざわめく気配。高耶は内
へ向いた瞳を閉じて、それをそれと掴む前に抑えこんだ。
高耶が出仕度を整え、廊下へ出た時、インターフォンが鳴った。直江が応じて、戸を開
く。
「おはよう、義明君。資料持ってきたよ」
ゆで卵のように、つるりとした鹿原神父の笑顔と、
「義明君、お久しぶり!」
明るいグレイのヴェールと修道服、豊かな時を刻んだと見える柔らかい皺に埋もれた瞳
がちかちかと輝く。
「! シスター・エピファニア!」
神父の肩までしかなく、直江と並ぶとまるで子供といった背丈ながら、そして柔和な笑
顔ながら、不思議な威厳に満ちた老修道女に、直江は高耶にはよく聞き取れない異国の名
で呼びかけた。
どう見ても日本の人だよな、と心の中で首をかしげてから高耶は洗礼名というものに思
い当たった。
「一、二冊、修道院の方へ行ってたもので、持ってきていただいたんだよ」
鹿原神父の言葉に、直江は恐縮した様子を見せた。
「すみません、まさかシスターにまでそんな御苦労を」
「とんでもない、あなたに会えるなら、火の中水の中。ああ、何年になるかしらね、もっ
とお顔を見せてくださいな。
あらまあ、とんでもなくいい男になられたわねぇ!!」
シスター…と直江が苦笑するのもかまわず、眼鏡の奥の瞳をくしゃくしゃにして彼女は
続ける。
「そりゃ、こーんな」
シスターは、手を自分の腰のあたりでひらひらさせた。
おみどう おんえ
「おちびさんの頃から、罪作りな美貌でしたよ、あなたは。そこの御聖堂で御絵を見上げ
ていた姿なんて、そのまま聖画のようでした」
歌うような美しいアルトで、さらりとそんなことを言う口調は、今の日本にはもう少な
くなった"上流階級"で育った女性のもので――ちょっと猪飼、いや御室真弓のそれを思い
出させた。
と、シスターの目が、廊下の高耶に止まり、再び笑った。
「まあ、これはまたタイプの違うハンサムさんねぇ!
目が喜びますよ、こんなお婆ちゃんでもね」
真っ直ぐにそんなことを言われて、高耶は耳まで赤くなった。
どう応じていいか解らず、ただ深く目礼して靴に足を突っ込む。
折り畳み傘を開こうとした彼に、あ、と直江の追いすがる声がして、さっと長傘が差し
出される。
「大きい方がいいですよ」
その声の優しさに、何故か、いたたまれなくなって、高耶はかぶりを振ってポーチを出
ながら、くしゃくしゃの自分の傘を空へ突き上げた。
紫陽花の頃は混んでいる、と聞いたとおり、すれちがう箱根登山鉄道の下りは一杯だっ
た。雨なのに、と溜息をついてから、それもまたこの季節の花には不可欠と思われている
のか、と高耶は納得する。しかし、その雨も箱根湯本で小田急線に乗り継ぐころには、上
がりかけていた。
開成駅を出ると、もう目の前が東河大学だった。
正門を入ると立派なバスロータリーがあり、高耶は驚いた。なんと学内バスだ。学内一
周の内回り、外回り、正面から裏門までの中心を貫く三路線がある。学生や学校関係者は
身分証明書がパス代わりになっていると看板に書いてあるが、学外の人間も、五十円で一
日フリーパスが購入できる仕組みになっているらしい。
端にある学内図を見上げ、高耶は唖然とする。川(しかもけっこう大きい)が敷地を斜
めによぎり、ところどころに県の鳥獣保護地区の指定を受けた場所があり、その間に各学
部の建物が散りばめられている。大学の中心部にあたる事務棟と式典等を行う講堂、体育
館は、このバスロータリーのすぐ奥にあるが――これはなかなか大変な町だ。
じかに来てみてよかった、と高耶は独りごちたが、どこか虚勢が混じった。心の中で嘲
る誰かがいる。その声を封じて空を見上げると、雨はやんでいた。小さく溜息をついて傘
を閉じ、とにかく大学案内でも入手しようと彼が受付を目指して歩き始めてほどなく、マ
ナーモードの携帯が振動した。
『おう、今どこだ?』
予想もしなかったが、すぐにはわからなかった、などと思っただけでも、だだだだっと
言葉の暴力を浴びせてきそうな相手のいつもの口調に、ちょっと耳を電話から離す。
「…東京…じゃない、えと、神奈川か、ここ」
『タコ』
ばん、と跳ね返されて、何なんだと反撃しようとしたところで、
『戻ってこい』
思わぬ相手――千秋の二次攻撃に言葉が出ない。こいつに命令されるいわれはない、と
思うより強く、そんな…とうろたえる思いが高耶を圧倒した。頭の中が一瞬真っ白になる。
『ツラぁ見せろ、景虎。おい?
ああ? 松本じゃねぇぞ。ここだ、この年代もんの変な形の土地の家だ。
えーと、強羅! 直江の巣に戻ってこい』