水無月の紅玉
7-2 初夏の白
男は――。
あの時と同じように、大きな黒猫を抱いていた。
梅雨の合間の六月の陽射しが、栗色の髪の上をすべってまたたく。白いシャツの胸元の
大きな黒い毛皮の上を、ゆったりと撫でるのは――白い小さな可憐な手。
玄関ポーチの脇に向き合って立つ男と、初夏の緑の化身のような女性と。
ゆるい風が、彼女の膝丈のワンピースの裾を翻す。黒猫の耳をなぞり上げる白い指先。
心地よさそうにその手に頭を押し付ける老猫の仕草に、二人の間で小さく笑う気配が通っ
た。
石段を半ば降りたところで、高耶の足は止まっていた。
美しい風景じゃないか? 何も悪くない、何も。
誰――も…?
けれど身体が石になったような気がしてしまうのは? いや、違う。心がまず石になっ
て、冷たい石化が内側から少しずつ進行してくる。じわりじわりと。
だが、ゴルゴンの魔法とは逆に、彼女の目が高耶を振り仰いだ時、石化は溶けた。
猪飼――御室真弓だった。
「高耶さん」
直江の呼びかけにスイッチが入ったかのように、高耶の足はぎくしゃくと動き出す。今
は良く知っているような気もしてきている笑顔で、真弓が一礼したが、そのしなやかな動
きに、これまでになく華やかなものが垣間見えたように思って、高耶は瞠目した。
彼女にも――この庭は似合った。
ほとんど白のようで、フレンチスリーブの袖口やフレアに広がるスカート部分のギャザ
ーには、木の葉の重なり合う陰のように新緑色が刷かれる。香り立つような女性らしさが、
夏に入りかけた今に似合う。――この庭に似合う。
「おい、直江ーっ!!」
不意に"美しい絵"のような風景がゆらいで、現実感を帯びる。やけにはしゃいだ声で、
庭から千秋が回ってきた。
「おいおい、どこにあるんだよ…えっと…、ナタ! おう〜、もう、このへんじゃ見ねー
もんだよな! あんだろ、貸せー!!」
相変わらず、と言っていいものか――ヴィンテージものと自慢されても、高耶にはよれ
んよれんの布にしか見えなかった色あせた青が基調のアロハに、これも古ぼけたジーンズ。
コーディネートのつもりか、コバルトブルーの髪ゴムで長くなった髪をゆるめに結んでい
る。しかし、いつものすまし顔はどこかに行っている。子供のように、全身でワクワク。
とんとんと足踏みさえしている。
「早くしろー、早くー!!」
千秋はちろっと高耶を見やったが、さっきのツラ見せろコールのことなど全く忘れた風
で、直江をせかした。
「しょうがないな」
子供に相手をせがまれた父親のような苦笑で、直江は黒猫タビをそっと地面に下ろし、
高耶にふわりと笑いかけてから、千秋と庭の方へ回っていった。
見送っていた真弓は、なー、と不満げな声をあげる大猫の頭をぽんぽんと叩いて、再び
高耶に会釈した。石段をゆっくり下りきって、高耶も何とか笑顔になる。
「一緒だったのか、あいつ言わなかった」
彼もタビに手を差し出そうとしたが、老猫はふい、とかわして、直江の行った方へ悠々
と立ち去った。
「…なンか嫌われてる」
憮然、というよりは悲しそうに聞こえたそれに、真弓がふふ、と笑った。
「ヘンクツじい様なんですよ」
言ってから、彼女は、あ、と口を押さえて、またくっくっと笑った。
「…久しぶりの薪割りにはしゃいじゃうっていう誰かも、そうかもしれませんね」
「え?」
聞き返してから意を汲んで、高耶も笑った。今度は自然に笑えた。
カッ、カコ…ッ!
朝、聞いたものより鈍く抜けた音がして、千秋が何か悪態をつく声。続いた音は、もう
少し鋭くはっきりしたものになった。真弓が高耶を振り仰ぐ。
「季節の和菓子を持ってきましたから、お茶でもいれさせていただきましょうか? 勝手
ながら」
「ああ…、ん?」
上方の道路から、はしゃぎ声のようなものが聞こえてきた。駐車場のあたりで、複数の
少女の声がして、紺色の人影がちらちら動く。
「…じょぶだってぇー。今日のは自信ある。上手く焼けたー」
「そうそう、まずちゃんと、こんにちは、から!」
「えりなー、ほらぁ!」
「え、やだー! アコちゃん、先頭ー!」
…なんだか既視感のある…、いや、この場合、聞き覚えのある会話というか話し方とい
うか…と高耶が思ったところで、門扉をいじる音とともに、またはしゃぎ笑い。石段をも
つれ合うようにして、白いブラウスに紺のジャンパースカートという制服姿の少女たち三
人が下りてきた。
「お客様のようですわね」
真弓はくるりと石段に向き直った。
「私が出ますわ」
うっすら微笑んだ横顔に、先ほどよりもっと華やかな気配が漂ったのを見て、高耶は目
を見張った。
こそこそ内緒話をしながら下りてきた三人の少女は、下に現れた真弓に驚いて、中段で
足を止めた。
「どちら様?」
涼しくてよく通る声で真弓が問うのへ、あわあわと互いを小突きあう。真弓の落ち着い
た物腰に対比すると、もたついて見える自分たちに気付いたのだろう。少し脱色している
らしい髪の一番背の高い少女が、やや挑むように相対してきた。
「あたしたち、白嶺の聖書研究会です。聖母教会でお話ししていただい…だいた…、あの、
えっと、せんせい、に…」
「橘に御用ですのね」
にっこり笑って言う真弓に圧倒されたのは、高耶もだ。
彼女は、庭の方へゆるやかに声をかけた。
「義明さん、聖母教会へいらしてるお嬢様方が、おみえよ」
"お嬢様方"
カトリック教会に出入りするだけあって、そうそう当世風マスコミ仕上げ女子高生、で
はないが、それなりに浮ついた空気もなくはない少女たちに、これはあまりにも強烈な皮
肉にもなりかねない言葉選びだった。
ハイソ
ましてや臭さ一歩手前、と言いたくなるほど立派な、真弓の"上流の女性"っぷりの前
では。
そこへ、ワイシャツの襟元を少しくつろがせたままの直江が現れた。
おそらくそれが少女たちをひきよせたのであろう、あの柔らかい笑みを口元に、彼が
真弓の側へ来ると、彼女はあら、と小さくつぶやき、指先を彼の頬へ伸ばした。え、と
唇を開いた直江の前髪と片頬を、白い指がさらりと払った。
少女たちの息を呑む音と高耶の肩が揺れたのとは、同じタイミングだっただろう。
「木屑が」
直江を見上げて明るく笑った真弓に、彼もうなずき微笑を返した。目を戻してきた直江
に、居心地悪そうに少女たちは紙袋をつきだした。しどろもどろに部活動で作ったパウン
ドケーキを持ってきた、と告げ、直江ではなく彼の傍らの真弓に礼を言われた。
逃げるように石段を上がった少女たちが、上の道を行きながらぼそぼそ言い合うのが、
高耶の耳にも届く。
「うわ…」
「…まーいったーってやつ…? …え、ちょっと、えりぴー…」
「泣いてんよー、この子ったらー」
「…アコ……ちゃんー…」
少女たちの声が遠ざかるのを、高耶も夢の中のように聞く。
ああ――わかるとも、と心の中でつぶやく。少女たちの儚い憧れを砕くのには、充分す
ぎる眺めだった。すべらかな生地のワンピースをしなやかな身体にまとわりつかせて、見
たことのない華やかさで笑った真弓には、大人の女性の品位ある輝きが備わっていた。
直江という男の持つ奥行きに似合う美しさだった。
いつか直江の肩の上にあった白い手。
白水村でのあの光景が、高耶の脳裏をよぎる。たった今、直江の頬をかすめた指先――
あの指が、高耶の胸の奥に情け容赦なく喰い入ってくるような錯覚があった。
「景虎様」
はっと我に返ると、今はあのゆったりとした笑みに戻った真弓が目の前にいた。高耶は
一瞬惑って、彼女からその奥の直江へと視線を移したが、彼は家の角を回ってきていた千
か お
秋の方を振り向いていて、表情は見えなかった。
「猪飼――――お前さ」
千秋は呆れた、という様子で唸った。
「ひょっとして…性格悪くねぇ??」
真弓はおや、と目を大きくしてみせて、少女たちの持ってきた紙袋をかかげた。
「何を今さら」
爽やかな笑みで。
「…いっとう優しいことをしただけです」
甘く謎めいたものに変わったそれを残して、彼女は千秋の脇をすり抜けていった。