水無月の紅玉
7-3 初夏の白
庭の藤棚の下の陶製のガーデンセットに、直江が応接間から運んできた茶器を広げる。
お湯を、と高耶より早く真弓が立って室内へ消えた。その迷いのない様子に、彼女はここ
へ来たことがあるのだろうか、と高耶は眉をひそめ、そんな自分が嫌になった。
ウッドデッキの端に寝そべっていたタビが、のそりと首をもたげた。と、玄関への小道
から、はっはっと忙しない息の音とともに、またあのダルメシアン、アンジーが庭へ走り
こんで来た。
丁度、卓上ポットを持って出てきた真弓に、嬉しげに飛びつこうと姿勢を矯める。
「アンジー!!」
鋭い声とともに直江が犬に制止をかけて、じゃりじゃりとひきずってきたチェーンをつ
かみに走った。
「あっと…、大丈夫ですよ」
ポットをかばいながらも笑う真弓に、直江は苦笑しつつ首を振った。
「じゃれつき屋だから服を駄目にしてしまう」
「…脱走屋でもあるってか」
千秋と高耶も立ってくる。
「散歩ひもじゃねーもんな、これ」
"メンクイ"アンジーは、千秋の顔も気に入ったらしい。身体一杯で喜び、伸ばした手
の下から頭で突き上げる。そのすきに直江は、ウッドデッキの柱にアンジーの鎖をからめ
た。
「あとで教会へ連れていかなければ」
溜息をつく彼に、真弓が、あ、と声をかけた。
「お電話鳴ってますよ。私が出てもまずいかな、と思ってそのままにしてきました。ファ
クスも何件か、来てましたよ」
直江はちょっと失礼、と急ぎ足で屋内へ消えた。見送った千秋は大きく肩をすくめた。
犬の耳をちょいとつまんでから、立ち上がる。
「直江、御多忙中、ってか。要領悪いんか、つまり?」
「学問がお好きだったじゃないですか」
笑う真弓に促されて、高耶は黙したまま藤棚の下のスツールに腰掛ける。陽光はまた少
し雲にさえぎられたが、雨の匂いは遠のいている。
「やりたいことをできるようになったんですものね」
ティーポットに湯を注ぐ真弓の手の上に、再びの陽の光。そよぐ緑の重なる空から、じ
ゃれつくように降ってくる。けれど高耶には、さっきよりも全てが鈍い色を帯びたように
思える。
千秋は、ん〜と頭の後ろで手を組んで、上体をそらした。
「オレはやりたいよーにやってきた」
「安…千秋さんはね」
ここの女主人だった人の手によるものだというティーコゼーをポットにかぶせながら言
・ ・
った真弓を、千秋はちら、と横目で見たが、ふと目の前の女性が誰かを思い出したという
ように見つめ直した。うかがうような瞳になる。
・ ・
「…やりたいこと、やってっか? …猪飼?」
「もちろんです」
即答だった。
「やりたいことしかしてませんよ」
それぞれのカップを暖めていた湯を捨てながら微笑む彼女を、高耶は訳の解らない焦り
に心を波立たせて見つめる。
「すみませんでした」
謝りながら陽をくぐって現れた直江も微笑んでいた。
少女たちの袋から出てきた重くみっしりしたパウンドケーキを切り分ける真弓の隣で、
千秋が自分たちの持参した涼しげな夏の和菓子を開く。彼女のそつのない動きが、使い込
んだティーコゼーとともにこの家の古き良き時代の女主人を思わせる。高耶はもやもやと
した胸の内を抑えて、右側の真弓からガラスの取り皿を受け取り、直江に回した。
「いい香りだ」
注がれた紅茶のカップを手にした直江が、深い声で嘆息する。
「焼きアーモンドのスライスが入っているんですよ」
ちょっといいでしょう?と真弓の目が笑い、直江がうなずく。
穏やかで綺麗にかみ合った二人の会話に、高耶は疎外感を味わった。彼らにそんな作為
は感じられないからこそ苦かった。
「んー、よくできてんな、このパウンド」
大口を開けてもぐもぐやりつつ、千秋が言う。
「三本も入ってますよ。もてますね、"橘先生"」
真弓のひやかすような口調に、直江が肩をすくめた。
「一本持っていきますか? 猪飼…いや、御室さん」
現名で彼女を呼び直した直江の声に、高耶はどうにか心を目の前の現実に向けた。
「いや…、オレも猪飼って呼びつけてんのも、ちょっと変…か?」
ねーさんは"ねーさん"で慣れちまったけど、と口ごもる彼に、
「だからって、"かーさん"と呼ぶわけにもいくめえよ」
小馬鹿にした千秋のつっこみに高耶が猛るのを、まあまあと直江がなだめる。猪飼和道
=御室真弓は、きれいな手つきでカップを口へ持っていった。
「夫は真弓と呼んでいますけど」
二口ほど含んだあと、ぷるりと震える葛桜を手にして、彼女は注がれる三対のまなざし
に気付いた。
「人数分、ありますよ?」
間。
「いや…!」
「そうじゃなくって!」
「夫ォ!?」
・ ・
同時に三つの口から飛び出した声をぶつけられて、さしもの猪飼も眉を寄せた。
彼女は、ちらっと千秋を見やった。
「安田殿にはお話ししたはずですが」
高耶と直江に視線を向けられ、千秋は飛び上がった。
「俺!? 何で俺よ!? いや、そうじゃねぇって! なんで俺が猪飼の…その…! えっと、
亭主!?」
ナンカ信ジランネェ、と小さく口の中でつぶやいてから、彼は慌てて言葉を継ぐ。
「んだから、そうじゃねぇって! 亭主を知ってる!? 俺が!?」
「身内としての立場を確保して、ってお伝えしましたが?」
へ、と呆けて、
「『身内としての』…」
と、繰り返して千秋は、はた、と固まった。
「…『立場を確保して』――『看病に』…?
…って、あれ…え…? ああっ!?」
びし、と千秋の指が天を指す。
「まっさか…え!? い…色部のとっつあん!?」
高耶と直江の口が、ぱくっとあいた。
「あの事故の時、一番手っ取り早かったので、それが」
真弓は、ぱくりと和菓子をくわえた。
「どっちの姓にするかは相談できなかったので、私の方にしましたが、別段差し支えない
よ、とおっしゃいましたので。
いま みむろ まさと
だから、あの方の現の名前は 、御室万里。――万の里って書かれて」
まりちゃ〜ん、なんて、と真面目な顔のまま言われても、三人はまだ凍り付いていて笑
えない。
責任上(?)千秋がぶんぶん首を振り――振りすぎて更にくらくらしたらしいが――お
ぼつかなげに言う。
「つまり…、すでに話し合ったわけか? その…"緊急避難"のこと」
千秋の指が、天から彼女に移る(そう、指差したままだったのだ)。
「人を指差すな、長秀」
「説教はさむな」
直江に噛みついてから、また、がぁ、と歯を剥いた千秋と顔をつき合わせ、真弓はうな
ずいた。
「ええ」
彼女は、卓上ポットを持ち上げた。
「で、まあいいんじゃないか、そのままで、ということになりまして」
重さを手で推測してから、蓋を取ってのぞきこむ。
「もう一杯いかがです? お湯入れてきますけど」
「ああ…、できれば」
直江がうなずき、高耶はいらない、と首を振った。
真弓が裾を翻らせて家の中に消えると、千秋はあとの二人のとがめるような視線に憮然
とした。
「そんな意味だったなんて、解るわけないだろ!?」
直江へ切り返す。
「お前こそ、あの二人とずっと一緒だったくせに、初耳ってのは何なんだよ!」
「いや…」
直江も、うーむと頬杖をつく。
「いや…そんな空気はまったく…」
高耶が無言なのは、まだ頭の中の整理がつかないからだ。
猪飼――"真弓"の夫。
つまり、色部と彼女は今生を伴侶として生きていく、とすでに決めて…というより、と
もに生きていく、ともう選び合っているということだ。
猪飼=真弓は、すでに親友にそれを伝えたつもりだったようだし――色部は…。高耶は、
んん、と頭を抱えた。
色部は――色部勝長は初生が人生半ばを越えるまであった人物で、若くして、しかもも
ぎとられるように生を終えた景虎や直江には、獲得しようのない落ち着きを備えていた。
自然に父のような心の支えになっていた人だが、自分自身の感情については、とても恥ず
かしがる――つまり、とても照れ屋だった。
ここに解答がある、と高耶は行き着き――顔を上げると、直江の面白がるような瞳にぶ
つかって、彼は慌てた。
「なっ…なんだよ…」
不意打ちに頬が熱くなる。
「いえね、同じ結論になったのかなと思って」
そのからかい口調が、ひどく胸にこたえた。とても――久しぶりだったから。
もっと、と瞳が言いそうになったが、直江は、ふ、と下方へ視線をそらした。タビが彼
の足元へやってきて、あられもない甘えっぷりを示している。くす、と笑って身をかがめ
る彼に、千秋がまだむくれたような顔で、
「ケダモノ、甘やかしてんじゃねぇ」
と言葉をぶつけた。それに呼応するように、それまで大人しくしていたアンジーが、立
ち上がってうろうろしはじめた。
「あら、おなかすいたの?」
戻ってきた真弓が、パウンドケーキのひとかけを手に思案する。
「でもねぇ、よそでおやつを食べるのはよくないんじゃないかしら」
「ケダモノに真面目に話しかけんな!」
真弓は千秋に向き直り、小首を傾げた。
「いつも真面目に話してますでしょ?」
「…!! 俺のことじゃねぇ!!」
千秋は両手の指をわきわきと震わせ、直江はこらえかねて身体を折ったまま笑っている。
高耶もつられて笑ったが、心までは届いていかないように思えた。
駅の近くの駐車場にレパードを入れている、と二人が立ったのは、夕焼けの気配が訪れ
た頃だった。アンジーとタビを返してくる、と直江も石段を上がって行き、留守番に残っ
た高耶は、ぼんやりと庭の奥へ歩いた。離れに沿ってゆるく傾斜していく奥庭。その隅に
は、直江の言ったとおり、小さな、だが清冽な流れがあった。
(オレは何を…)
何をしているんだろう。