水無月の紅玉
8 香りの鍵
今日は空がもつようだから、バイクを取りに行こう。
そう直江が言った。
今日は友人と会う約束があったので、申し訳ないが夕食は自分で取ってもらえるだろう
か。家のものは何を使ってくれてもかまわないから。
わかったと答える自分を、高耶は外から見つめているような気分だった。渡された鍵の
感触も本物らしくなかった。
もう一度、東河大学に行ってみよう、とバイクを走り出させたのはいいが、ぼんやりと
小田原方面へ向かう道に乗ったところで、免許証を忘れてきたことに気付く。
高耶はやむなく強羅へとって返した。
今日は一段と香り高く感じるバラの木の間を駆け下りて、家へ入る。誰もいない、と改
めてつぶやくと、ここのところ静かに降り積んできていた疲労感が一気にのしかかってき
た。
座敷の隅に畳んでおいた布団に、どさっと顔を埋める。
胸ポケットの珠が肌にめりこんだが、痛いとは感じなかった。
優しい表情、優しい仕草――それだけしか浮かんでこない。心地良く整えられたこの家
のどこにも辛いものはない。穏やかで暖かい――直江の生活が築かれている家…。
なのに、何故――
オレは寒いと思うのだろう。
はらはらと落ちる桜のつぼみ
一面に降る"真珠"
大樹の下にたたずむ彼は 淡く微笑んでいる
白い手が――
細いけれど かよわくはない指が
その頬に触れて
彼はゆるやかに目を伏せた
笑んだ口元に宿る――
安らぎと
陶酔
――――身体が熱い
高耶は目を見開いて、そのまま横たわっていた。部屋にはもう夜闇が忍び込んで、一気
に時が経ってしまったことを教える。
火照った頬、熱い身体、激しい脈動。
唇を噛んで、もう一度目を閉じる。大きく息を吸ってゆっくりと吐いて、それを繰り返
し、外から宥めることなく身の内に溢れた熱を収めることに成功した。
落ち着いたことに安堵の息をもらして、高耶はゆっくり身を起こす。
明かりをつけ、ぼんやりと時計を見上げると、やべ、と口からこぼれた。
見事に半日が過ぎていた。
高耶は少し迷ってから、とりあえず米を炊く仕度をして風呂に入った。相変わらずの人
工的な『アプリコット』と湯の匂いに身をまかせたが、先ほどの夢と直後の昏い熱とが甦
るような気がして、そそくさと出てしまった。
彼は大雑把に髪をぬぐうと、結局冷蔵庫の豊富なストックではなく、レトルトカレーを
一箱ちょうだいすることにした。
なおえ
座敷に床は延べたものの眠気は来ないので、茶の間に行ってみた。――彼がいないと、
どこもかしこも違ってみえる。全く別の場所に。
気付けばもう十二時を回っていた。ごろりと横になって頭の下で手を組む。
――友人と会う約束が。
マイナス
直江の声音に何も 負 なものはない。だから、その時に感じた微かな痛みは自分だけのも
のなのだ。そう、もう――。
高耶は目を見張った。
もう――主従という形は存在しないのだから。
車の――停車する音と、何か人の声。
上の道路だと気付いて、高耶は起き上がった。
笑い声のような響き、門扉の音。
広縁に出て、カーテンの隙間から上方を伺うと、タクシーのランプが止まっているのが
見えた。
高耶が玄関の戸を開けて待合を抜けると、街灯の光の中を、直江とタクシーの運転手が
間に一人を挟んでゆっくり下りてくる。真ん中のその誰かは、少々足元が怪しそうだ。石
段が危ないので二人がかりになったのだろう。
明るめのグレイの背広の上下を着たその男は、痩せ気味の中肉中背といった身体つきな
のだろうが、支えているのが直江なのでとても細身に見える。彼の左腕を肩に回させた直
江の方が、ほとんどその体重を預かっているようで、運転手はそれを気遣いつつ、ともに
下りるサポート役というところだった。彼らが下りきったところで高耶も合流する。
「高耶さん、遅くなって…」
息をはずませて言う直江を何故か正視しきれず、高耶は不器用に客の右腕をとった。ア
ルコールの匂いに、ちょっと顔をしかめる。
「オレ、引き受けるから」
「あ、ええ、待合に座らせて下さい。じゃ、ちょっと…」
運転手に礼を言いつつ、一緒に石段を上がって行く直江をちらりと見て、高耶は男の腕
を肩に回した。
「んー、ごめん〜、橘ぁ」
はずむような響きの若々しい声で、男は高耶が思っていたよりスムーズに歩き出したの
で、そのまま家に上げてしまった。
廊下を抜け、延べてあった座敷の布団の脇まで連れていくと、相手は、お?と声をたて
て、きょときょとと天井や床を見回し、やっと高耶に気付く。
赤茶がかったウェーブの髪の下から、少年めいた印象の瞳がじっと見つめてくる。ほぼ
同じ目の高さ。
「えーと、ここさぁ…」
子供のような口調の疑問形に、どう答えようと高耶は少し考えたが、ようやくぼそりと
言う。
「…橘…さんの預かってる家」
「え…え、あ、れー」
男はもう一度高耶をしげしげと見て、くしゃりと笑った。無邪気、といいたくなるよう
な笑顔なのに――曲者の気配がする。
「なんだー、ほんとに男ん子かぁ」
くつくつ笑いながら彼は上着を脱ぎ、すとんと布団の上に胡坐をかいた。
「お客いるって…そっかぁー」
ころころ、という表現に変わった笑いに身体を震わせながら、男はネクタイを抜いて、
ぽんぽんと靴下も脱いでほうり投げた。
高耶はちょっとむっとしたが、こいつは酔っ払いのわりには感じのいい方だ、とひとり
ごちる。そこへ後ろから声がかかった。
「高耶さん…、あ」
手にしていたソフトジャケットを放り出して、直江が男の肩に手をかける。
「奥村! こら、そこは!!」
高耶はいいんだ、と首を振ったが、直江と呼ぶわけにはいかないと気付き、声を改めて
言った。
「いいんだ。オレ、水持ってくる」
「しかし…」
「いやー、橘ぁ!」
奥村と呼ばれた男は、またはしゃいだ声で直江の背中をばんばんと叩く。
「わりかった、疑って! いや、まあ、素行が素行だしィー!!」
「何の…おい、奥村っ!」
直江が迷惑そうに身をひこうとしたところで、相手がさせじとひっぱったせいで、二人
の男はどたどたと布団の上にもつれて転がった。奥村は仰向けになったまま、げらげら笑
い、直江は憮然として起き上がった。引き倒された時にシャツのボタンが飛んだのか、前
が開いて左胸がわずかにのぞく。
ぞくりと高耶は身を震わせて、座敷を出た。駆けこむように台所へたどりつき、荒々し
く蛇口をひねる。水切りかごに伏せてあった大振りのグラスをつかむ手も震えている。流
しのふちを握りしめ、唇を噛みしめる。二呼吸して、ようやく水流をしぼると、座敷から
声が聞こえる。
「橘ぁ…、大阪、来いよ」
耳がそちらへ集中する。
「うち来いよ。社長、ほんっとーにお前に来て欲しいんだ」
真摯なものを含んだ奥村の言う"社長"が誰かは、高耶にもすぐわかった。京都の一件の
時、直江が関わっていた製菓会社の――狭間社長。
「できるやつだからってのは、もちろんだ。でもそれだけのやつなら幾らでもいる。社長
・ ・ ・ ・
はお前に横にいてもらいたいんだ。支えてくれって、お前になら言える。本当にそう思っ
てんだ、あの人は」
酔いにまかせて、というより、酔いで勢いをつけて、という口調はどんどん強くなって
いく。だが何か低く答えた直江のいらえは、彼の意をかなえなかったようだ。
「…んでわっかんねーかなー。…ミネの時もそうだったじゃん」
・
なんで…峰さん、と高耶はぼんやり松本の知人を思い浮かべたが、奥村の言うそれがコ
・ ・
ミネという名だったと気付く。
「…小峰がぁ、あの時どんなにお前にうんって言ってほしかったか、わかんねーはずねー
わ。そりゃ剣道一直線で来たやつよ? インターハイに行きたいってのが第一のよーに見
えたかもしんねーけど、そじゃねーよ。
小峰は、ずっとお前とやりたかったの。
香川、事故ってチーム出場危ねぇってのは、きっかけだったんだよ。小峰はずっとずっ
とお前を見てたよ。お前が少しでも近づいてくれたら『一緒にやろう』って言うんだ、っ
て――ずっとそんな顔で見てたのに、お前はよう…」
奥村が大きく息をつくのが聞こえた。
「お前はほんとにお前をほしいってやつには、絶対近づかねんだわ…。誰にでも優しくす
るし、頼られたらそりゃ手も貸すけど、それだけなんだわ。それ以上の本気には…絶対…
誰にも…」
声がくぐもって聞き取れなかった。高耶は出しっぱなしの水流に気付いて、のろのろと
水を止めた。
足音がしたが、高耶は振り向けなかった。
「高耶さん」
涼しい声とともに、手のグラスを抜かれる。顔を上げると隣で直江が微笑んだ。
「寝てしまいましたよ。すみません、うるさくて」
彼は肩をすくめて、そんなに酒に弱いやつじゃないのにと優しく言う。
「申し訳ありません、あなたの場所を占拠してしまって。
離れを使って下さい。私も、今夜はこちらであいつについていることにしますから」
直江はグラスに目を落すと、ゆっくりとそれを飲み干した。顎から喉への線が綺麗に伸
びて、水を送りこむ動きに揺れる。
掻き合わされたシャツも、それにつれて肌にからむように震えた。
開いたら――あるのだろうか。
あの溶けたようによじれた赤い――左胸に咲く傷痕。
高耶はぐっと手を握りしめて、ようやく言葉を押し出した。
「そうする」
離れに来て、高耶はとまどった。
奥が寝室と言っていたが、と書斎へ一歩入る。右側手前の引き戸が入り口か、と開いて
・ ・
驚く。完全に今風の広い洋寝室だった。正面中央の壁に出窓。それを"宮"扱いする形で、
低いベッドが置かれている。異国風の鋳鉄の寝台枠の大きなものだ。床はフローリングで
右手のウォーキングクローゼットの前に、母屋の応接間の天津絨緞とそろいらしいラグマ
ットが一枚。左手の壁にあるもう一つの引き戸は、浴室への寝室側からの出入り口らしい。
出窓のカーテンをひいたところで、急に力が抜けるような気がして、高耶は白と水色の
ストライプのベッドカバーの上にどさりと倒れこんだ。息をついて反転し、布の海につっ
ぷした。
緑の匂いがした。
――もっと緑の… ヤロウやバーチの香りの
さわやかで深い―――
――のこぎり草や白樺…
そして懐かしくて心がぴくりと跳ねるのは―――
――怖くない…
切なくて身体の芯がしびれるような―――
――高耶さん
直江の匂いだ。
「…あ…」
彼はここで眠る。
きっと伏せた睫は思いのほか濃い影を落す。
指先がシーツの上に安らいで、
眠りにゆだねられた身体は、この寝床に溶け合う。
戦いの場で、四肢の隅々まで漲っていた獣の力強さなど、
どこにもなかったように穏やかに眠るのだろう。
あんなに熱く――
獲物を求めたくせに
そんな幻など知らないと
情炎に嬲り焦がされた蜃気楼は
もう―――
オレの肉体に残る影でしかないというように。
「あ…くっ……」
血が体内で燃え上がる。彼の声、彼の仕草、かつてこの身体の上に彼が残した触跡の全
てが、身体の奥からの熱で焙り出され、浮かび上がるようだ。歪みよじれながら吹き上げ
た凶暴な内側の火炎に呑まれたくない、と高耶はシーツを掴み、身を二つに折ったが、唇
はこじあけられる。
「……ッ! う…」
指先が欲しい。唇が欲しい。あの厚い胸の感触、押さえこむ腕の強さ、頬に落ちた涙、
あびせかける想いを乗せた深い声――彼の匂い。
息を呑みこみ、高耶は転がり落ちるようにベッドから逃れた。
けれど床のラグマットの滑らかさが、手足の指先を捕らえて――抵抗はそこまでだった。
肉体はもうどんな脳の声も聞かない。かわりに、ただ思い出せと命じて主導権を奪う。
どんなふうに触れたか
どんなふうに口づけたか
どんなふうに求め、ささやいたのか彼は
かつて―――彼は
自らの手では再現できはしないとわかりすぎていながら
もうこの身体の浅ましい叫びに抗することなどできない
床に座りこみ、よりかかるベッドに背を押しあてて、身体を中心から揺すり上げる白熱
にゆだねた。
反り返った喉から、決して口にするまいと思った名前が、高耶の無力を嘲笑うように溢
れた。がんがんと血流の速さで内から破られそうな額の痛み。のぼりつめたあと、狂熱が
位相を転じたように、全身を舐める冷たい汗に変わる。荒い息をこぼしながら、潤んだ瞳
でここにはいない男の幻を見つめ続ける。
たまらなく惨めだった。
眠りの水底から浮かび上がった弥生の月の夜。
あの日から。
直江は高耶に触れていなかった。