水無月の紅玉
9 熱の行方
「高耶さん…?」
高耶はベッドにもたれたまま、ゆっくり目をしばたかせた。
出窓のカーテンの向こうが明るくなっているのが目をかすめて、ああ朝が来たのかと鈍
く重い頭で思う。
「高耶さん、まだお休みですか?」
書斎との戸の向こうから――彼の声がする。
「…いや」
しわがれた声が勝手に答えた。
「昨夜はすみませんでした。あなたにまで御迷惑をかけて」
もう一度否定を返して、高耶は戸を見つめる。
「ちょっと奥村を小田原まで送ってきます。朝食の用意はあちらにしてありますから」
隔てた戸を――開くことなく足音は遠ざかっていく。
それはそのまま、今の彼との距離だった。
――本当に覚えていないのですね。
悲しそうな声だった。景虎なんて知らないと言うたび、彼は悲しげで辛そうだった。そ
れでも笑んでくれた。
――あなたはチャンスをくれたんですよ。
(おまえは…!)
高耶は膝の上に頭を垂れた。
どうやってこんな思いと向き合ってきたんだ?
こんな苦しい気持ちとずっと向かい合って、それでもオレを責めはしなかった。ただ気
遣ってくれていたあの頃――。
けれど指は伝えた。腕も伝えた。自分をかばい受けた背の傷も――彼は全てで伝えてく
れた。
この夏の庭で――直江は優しい。細やかな心配りと控えめな配慮。出会った頃に似た穏
やかな空気。
あの頃に戻ったようだ――そう思っていた。
けれど――そこまでだ。彼は近づいてこない。ごく近くに在るけれど、あの――心と身
体の底に響く熱を投げかけてはこない。友情や親しみといった域を超えない優しさ…。
瞳を合わせても、それは優しく躱される。あまりに優しくさらりと受け流されるので、
それを追及することさえできない。
あの二年間――無様な――とは違う餓えが高耶を縛る。通り過ぎるばかり、と受け止め
た自らの幻想の中の直江。
・ ・ ・ ・
今はちがう。これは確かに直江だ。狂気の思いこみでさえ是正できなかったあの直江か
・ ・
らは得られなかった本当の気配、心の波動が感じられて、高耶は自分がいかにこの存在に
飢えていたのかを思い知らされる。
けれど――全部ではない。
・ ・
かつては自分に向けられていた全部が掴めない。
触れてこない、近づいてこない。言葉にすれば、あの二年間と同じ焦れともとれるだろう。
けれど――ちがう。
言葉も微笑みも気遣いも、優しい波のように足元に寄せる。直江の、直江にしかないぬ
くもりを肌の近くに感じて安堵するのに、次の瞬間、身体ごと魂が啼く。
な か
――どうして内部に入ってこない?
悲鳴のように血流に乗る動揺、表に出すまいと唇の内側を噛む。触れてくれれば―――
・ ・
それは肌から内へ、肉と血に伝わり、高耶を暖めるのに。心の芯――身体の中心にあるあ
の灯をもっと熱いものに。それがすぐそこに。あと少しで得られるはず、と全身がわななく。
けれど――。
(近づいてこない…)
優しいままの関係で、なぜいけない?と。
かつて彼をなじったのが誰であったか、忘れたりはしないけれど。
湖の風にさらされながら、肩のぬくもりに甘えていながら、相手を責めた。
このまま、ずっと――飢えていなければならないのか?
震えながら、足元まで寄せてはひいていく暖かいはずの波に焦がれて?
また増え始めた雲で、色あせてきた庭に目を向けて、高耶は応接間の外のウッドデッキ
に足を投げ出していた。
じゃりじゃりという奇妙な――だが聞いたことのある金属音に、ふと首をめぐらせると、
またはっはっと舌を見せたダルメシアン犬が、チェーンを引きずって庭に現れた。アンジ
ーは嬉しげにわほん、と声をあげて、高耶に飛びついてきた。
「やめ…! おい…また脱走…!!」
押しのけても押しのけても親愛を示したいのだと、犬は彼に身体全体でぶつかってくる。
ついに高耶は立ち上がって、アンジーのチェーンを掴み気迫を込めて、おすわり、と言い
渡した。拍子抜けするほど、あっさりとアンジーは従った。しかしそれはほんの五秒ほど
で、すぐにそわそわ、うるうるしはじめる。高耶は小さく溜息をつくと、犬を促して玄関
の方へ回っていった。
強羅聖母教会の敷地の奥に見える司祭館、その側に赤い屋根の犬小屋。ただし、よくイ
ラストなどで見かけるような可愛い大きさではない。一言で言えば――でかい。ダルメシ
アンは大型犬なのだから。
高耶はゆるやかな下りに沿って、そちらの建物に近づいたが、人の気配はない。嫌がる
アンジーを断固たる態度で引き連れ、犬小屋の側まで来ると、小屋の屋根から司祭館の角
にロープが渡してあるのに気付く。アンジーのチェーンはこれに繋いであったのだろう。
留めが少し甘くなってるんだ、と高耶はフックをそのままロープにはかけず、チェーンを
二回しして留め付けた。とりあえず、これで大丈夫だろう。
「あら?」
後ろからの声に振り返ると、聖堂の窓から灰色の可愛いフクロウを思わせる、いつかの
シスターが手を振っていた。
「まあまあ、すみません! 一昨日も義明君が連れて来て下さったの、あの逃げだし屋さ
ん!」
渋る高耶を、修道女は聖堂の後ろの扉へ招き寄せた。
「…こんにちは、あの…シスター…エ…?」
口ごもる高耶に彼女は笑った。ふっくらと白く丸い顔、優しい皺にふちどられた眼鏡の
奥で、つぶらな瞳が茶目っぽく輝く。
「ああ、よろしいのよ。今は姓の方で呼ばれるのが主流ですの。わたくし、森口、シスタ
ー・森口です。なんなら、昔、白嶺の生徒たちが呼んでくれていた"エビちゃん"でも、
よろしくてよ」
高耶もつられて、小さく笑った。
「言いづらい名を頂いたわ、とあきらめていたんですけどね。義明君は、初めからそれは
綺麗な発音で呼んでくれましてねぇ、わたくし、ときめいてしまいましたよ。十歳…だっ
たかしら、まあ整ったお子でね、『シスター・エピファニア』って…。
ああ、どきどきが甦りますね」
わりあい早口なのだが、発音が美しくて、きちんと間が取られているせいだろう。シス
ター・森口の語りは心地良かった。どうぞ、と促されて、高耶は聖堂に足を踏み入れた。
外がそう明るかったわけではないが、やはり屋外からこの広い静かな空間へ入ると目が馴
染むのに時間がかかる。歴史ある建物らしい木造の聖堂は、いかにも敬虔な思いに支えら
れてきたという風情だった。
「今はすっかり立派な大人になってしまわれたけど、昔、ここへ来てらした頃は――不思
議な透明感のある男の子で」
―――子供の頃、しばらくそこに行っていたっていうのも同じ理由だったんだと思う。
不意に高耶の脳裏にひらめく怒ったような少女の声。
―――変な好奇心で、叔父の周囲に首つっこんでくる人たちのせいで、
直江の…左手首の傷跡。いつか綾子がそっと教えてくれた。
―――あたしたちが嫌な思いをしないですむように。
真知が言ったのだ。直江が昔ここに来ていたと。
おそらく、森口修道女の語る少年は――左手首に包帯を巻いていた。
おみどう
「ここにいる間の義明君は、いつも静かに御聖堂の左端の…そう、あの席に座って」
シスター・森口は、手でそのあたりを示した。
おんえ
「何時間でもじっとね。御絵を見ているのかな、と思っていたけれど…」
シスターは軽く首をかしげた。
「…そう…、…一昨日、みえた時も同じ場所にしばらく立ってらして…。
しばらく…ずっと。…あの時みたいに…」
とても、ひたむきに。
高耶はシスターの声に誘われるように、その位置に歩み寄った。
「――違っていたわ。義明君が見ていたのは――」
重なり始めていた雲が、ふっと途絶えて、ひとすじの陽光が歓喜の声のように地上へ下
りた。光の動きに導かれるように、高耶は聖堂の正面へ目を向けた。
祭壇の中央に十字架上のキリスト、そしてその右、柔らかいほの暗さの中にたたずむ―
―。
手を合わせ、わずかにうつむく清らかな面差しが、光の中に浮かび上がった。
美しく慈しみに満ちた―――
マリア
「聖母様だったのよ」
美奈子の顔だった。