水無月の紅玉
10 荊冠の庭
どうやって戻ってきたのだろう。
石段の一番下にいた黒猫が激しく威嚇してこなければ、気付かず踏んでいたかもしれな
い。バラの茂みに右半身をかすめる形になった高耶の首筋や腕を、棘が容赦なくひっかい
たが、痛みを認識することなく彼はそのまま石段に座りこんだ。タビは不満げな声をあげ
たが、高耶が動かないので、自分も譲らず彼の隣で大きな香箱になった。
マリア
橘義明の見つめていた聖母。
――彼女はまっすぐに、こちらを見つめていた。
瞳の中には、今まで露わになることのなかった強さが現れていた。
ゆらぐことなく。
組み合わせた手に想いが形作られていた。
――片羽の…白い小さな手。
高耶は膝の上の腕の中に、顔を埋めた。
聖母を見つめ続けた少年。その手首には悲鳴のような傷。
(オレは直江の傷をどれだけわかっていたのだろう)
…そうじゃない。
どれだけわかっていなかったのか。
いつも――気付くのが遅すぎる。
もう何もかも遅いのか、
もう何もかも失くしていたのを、オレひとりがわからずにいたのか。
何もかも終ってしまっていたのか。
オレの――四百年。
過ちと逃げの繰り返しのまま、
本当に失えない、
これだけは失えないと知った、
たったひとつ、さえ、
大切にできなかった。
大切だから怖かったなんて――
言い訳にもならない。
傷を抱えて、それでも逃げることなく全てに向き合ってきた直江が築きつつある生活を、
責める権利なんてない。オレにはない。
直江が。
やまい
もう"オレという病"を克服してしまったのだとしたら――。
突然。
高耶の頭上を、ヒステリックなブレーキ音が切り裂いた。
は、と顔を上げた瞬間、激しい衝撃音とともに、視界が遮られた。それが中空高く跳ね
上げられた金属の塊――歪み、ひしゃげた銀色の自転車だという認識と、落ちてくるのが
自分の上だという確信は同時だったが、足元の猫にも寸瞬の違いで思い至った。
老猫は逃げられない…!
・ ・ ・
高耶は空を睨み、掌のうちにあの力を集めようと構えた。
ぐっと腰を沈めたその時――。
琥珀色の閃光が瞳を貫いた。
横一文字に伸ばされた男の腕が、白いシャツの背から生じた琥珀の光の筋を幾本も奔ら
せて、高耶の視野を塞いだ。
裂帛の気合いとともに、その腕は落下物を脇のバラの波へと叩き落した。ばきばきっと
木々のあげる悲鳴とはじかれた花弁とが、宙に舞う。
琥珀色の――直江の炎。
いつも傍らに前に、そして背を護った。
残像が、高耶の瞳の中を灼く。目の前の背は、噴出した輝きを身の内に収め、大きく息
をつく動きに揺れた。
(振り向いてくれ…!!)
だが高耶の心中の叫びが口元に届く前に、彼は石段を上がっていった。
上方の道路では、乗用車と自転車の起こした正面衝突に人々が騒ぎ始めていた。
「大丈夫だったようですよ。自転車の女性も」
藤棚奥の白樺の林の手前にいた直江は振り向いた。
手にしていたブリキのバケツを置いたのは、林より庭側に一本離れて立つ桜の木の下だ
った。あの白水村の屋敷にあった木よりは若いようだが、立派な枝ぶりを広げている。
「身の軽いのが幸いしましたね。ボンネットの上に投げ出されて、それで済んだんですか
ら」
再び火を入れた暖炉に少しくべたい、いい香りがするから、とすでに打ち落としてあっ
たらしい小枝を拾いながら、彼は見知らぬ女性の幸運を心から喜ぶように笑んでいる。
「拾ってもすぐには使えないんですが、また雨になりそうだし、軒下で干しておいた方が
いいですから」
あの白いシャツを染めた琥珀色の炎の輝きなど――どこにもなかったというように――。
優しい横顔を見せながら、梢を見上げる彼――は。
「香り…から連想するのも失礼ですが、御父上の御法要もじきですね。あなたも色々忙し
くなられる」
思いやりとしか取れない言葉で、なぜ――。
「当面の勉強や、これからのこと…。ああ、"ジャムの養子先"もありましたね」
笑顔ももう喜べない。なぜなら、それは――。
「高耶さん…?」
自分だけのものではないからだ。
誰にでも――事故に遭った女性、シスター・エピファニア・森口、奥村、老猫タビ、そ
・ ・
のほかの。誰にでも与える優しさだけだからだ。
「…邪魔か?」
かすれた高耶の声に、直江は驚いたというように彼を見る。
「邪魔?」
「オレはもう…邪魔でしかないのか?」
両脇に下ろしていた手に、自らの言葉に耐えるための力が走る。
「そんなこと――どうして」
「おためごかしはいい」
高耶はまっすぐに直江を見た。
・ ・
緑を背にした直江、美しい夏の庭の似合う直江――近くにはいない直江。
近づいてこない直江。
「オレが邪魔なら邪魔だと言えばいい。言えばいいだろ?
もううんざりだ。逃げて逃げて逃げるばかり。狂ってまで逃げて、おまえを振り回すば
かりのオレなんて、もうどうでもいいんだって!!
そんなこと忘れたい、もう捨ててしまいたい、全部なかったことにしたいんだって!」
小刻みに震える高耶の喉からほとばしった叫びに、直江は目を見張っていたが、ふと口
元が力をこめて結ばれた。そして、ゆっくりと―――。
「…そうですね」
高耶は打たれたように、息を呑んだ。
直江の口端がわずかに上がり、冷えた微笑がそこから目元に広がってゆく。
「そうです、と言えばいいですか? あなたの望む答えを私が口にすれば、帰ってくれま
すか?
私を一人にしてくれますか?」
「な……お…」
夏の庭を従えて、彼は氷の彫像のようだった。怜悧な威圧が、向き合ったその姿、全身
から放たれて高耶に迫る。
「もううんざりしている。疲れた。一人にしてほしい。」
直江は目を伏せ、はっきりと笑った。
「飼い主を疲れさせない犬になれ、ですか」
高耶は直江の口元に浮かんだ、この上なく冷たい笑みに目を見開いた。口調にこめられ
た残忍さは、そっくりかつての自分のものだった。震える指先を握りこみ、必死に声を押
し出した。
「…ちが…」
「ちがわない」
起伏なく返される否定。
「私でなくてもいいのでしょう?」
とても優しい口調で――
「『代わりはいくらでもいる』」
わ ら
差し出されたかつての"罪"。震える高耶に、彼はもっと深く微笑った。
厚くなる灰色の雲を運んでくる風は、水の匂いがする。
「どうして聞かないんです?」
声だけ聞けば、とてもとても優しい。
「上杉の総大将と呼ばれる地位にあった間の私のことを。
色部さんのお話ではなく、私の口から聞きたいとは思わなかったんですか?」
虚を突かれて、高耶は怯んだ。
あの弥生の日以来――考えなかった訳ではない。
ただこの土地へ来て、直江のぬくもりにまた出会えたと思った安堵の気持ちには――穏
やかな日々を貪りたいという気持ちには、勝てなかったのだ。
「あなたが本当は心底大切にしていた地位を、たとえわずかな間でも謙信公から託されて
いた時のことを。
ええ、色部さんのお話は間違っていません。あれはあれで本当です。でも、あの方は優
しくて曇りのない言い方をなさった。
あれだけが本当だったなんて、あなたも思っていない。そうじゃありませんか?」
高耶はぐっと肩に力を漲らせて、直江を見据えた。瞳に強い輝きが宿る。相手は真摯に、
しかし倣岸なものを目の底にたたえて、それを見返した。
「そう、私は力で闇戦国を制圧し、弥勒――譲さんが暴悪のものになるのを喰い止めよう
とした。彼を利用しようと考える勢力を圧して、今生の彼を護り抜けば、今のこの戦いを
鎮められると」
笑んだまま、彼は右の掌で高耶を指した。
「あなたを囮に、裏でこの戦略を進めれば成功するはずだった。誰も"上杉景虎"が囮だ
なんて思わないから」
嘲りでも入っていれば、反発できたろう。しかし、直江の声は再び静かで平坦なものに
なっていた。ただ――事実を述べているだけの。
結局、中途半端に失敗してしまいましたけどね、と。他人事のように。
「きれいごとだけではない。最悪の予想もしていた。
あなたを救うためと言いつつ、何もかも失敗し――ついには譲さんをこの手にかけて、
あなたに憎まれるままに殺される自分も、自虐的な陶酔で思い描いた。
親友を殺されて、かつて最愛の女性を私に凌辱され、更にはその肉体に換生させられた
時に引き戻されて、奔る憎悪のまま私を殺してくれるあなたを夢想し、自分を嘲りながら
――私は喜んでもいた。それが実現することを望んでもいた。
それこそが完璧な解放だ。そうでしょう?
この苦い焦燥と妄執を手放すには、そうして焼き尽くされるしかなかった」
静かな――流れる水の滑らかさ。高耶はその穏やかな深さに魅入られたように、声もな
い。その目の先で、直江は微笑み続ける。
「私はそういう男で、そういう本性を際限なくひきずりだし、嘲笑し、踏みにじるあなた
が憎いのだ、もう嫌なのだと、そう言えばいいですか? 叫べば解放してくれますか?」
すう、と笑みが溶けて消えた。
冷徹な決意が口元から広がり、双の瞳に達した。
「もう繰り返すつもりはありません」
声は出なかった。その時、高耶に返す言葉はなかった。