水無月の紅玉
11 罪と声と
何より苦しかったのは―――。
辛かったのは、忘れたかったのは。
萩城の炎の中、あふれる血の匂いの中、
こときれた直江の顔が、幸福そうに見えたことだった。
解放されて嬉しい。
自由になれて嬉しい。
もう軛はない。
自分を縛り苛み、その苦しみを啜り上げる者はもう遠い。
――絶望した。
いのち
こぼれていく生命を必死にかき集めようとした。
オレは言ってない。
怖がって怖がって逃れてきた本当を。
たったひとつ、一番大切な―――
疑って試して長い時を―――
ただ胸の奥底に抱いてよりどころにしていた
一番大切なもの、喪えないと叫びつづけて―――
もう遅いのか
遅いのだ
ああ、もう何も意味はない。
コノ生ニハ、モウナニモナイ。
貫いたのは悲鳴――?
いや…誰かの声…。
胸元へ熱く――オレの胸を貫いた。
誰……。
怒号、外の音、不意に"自分以外"が周囲に現れ、のしかかる。
「何をやってる!!」
高耶のバイザーに貼りつくようにして、がなる壮年の男の顔、ごつごつした輪郭の上の
頭には白いヘルメット、警察の印。
何だ、この音は。あたりが水の膜の中のようだ…。なのに――。
なぜ、この警官の肩の後ろには――火炎が広がっているのだ?
天へ上る竜のように。
「合図が見えなかったのか!?
おうよ、千歩ゆずっても、あの火ならもっと前から見えただろーが!! この雨ん中でさえ、
ごんごん燃えてんだ。物見遊山のつもりか、貴様!!」
その怒声をかき消して、ばばっと破裂音が周囲を走った。
「いけねぇっ!!」
警官が雨のアスファルトに高耶を押し倒したのと同時に、爆発音が轟いた。寸瞬遅れて、
爆風があたりを薙いだ。
「…タンクに…! 畜生、消防まだかっ!!」
仰向けに倒れた高耶を置いて、警官は駆け去っていった。
「大丈夫かい、坊や」
激しい雨に叩かれたまま呆然としている高耶に、作業服姿の小柄な男が手を貸して立ち
上がらせた。
「…参ったねぇ、タンクローリーにトレーラーに…、五、六台じゃきかねーわ。雨で滑っ
たんだろうが…」
前方の炎を見やって、男は溜息をついた。
「…あんたも…まあ、びしょ濡れじゃねぇの。何だって、そんなかっこで高速に…。よく
無事にここまで来たねぇ」
(…高…速…?)
高耶はゆっくりと周囲を見た。山…と木と…その間に上下各三車線の高速道路。けれど
今、彼の周囲の車は止まっていて――前方に紅蓮の炎。幾台もの車の影を呑んで、雨音に
も負けずに天を呪うように吹き上げる…炎。
奥歯が――鳴り始める。
濡れそぼった身体が震えだす。寒さのせいではなくて。
炎の匂いが、色が、音が―――
魂の奥へ猛然と流れこむ。
炎、が。
いつも炎―――。
鮫が尾―――焼き尽くされた東京―――阿蘇―――。
けれど――萩。そう、萩で。
答えを真実をおまえの口から!!
オレを捨てるのか、本当にオレを、今度こそ?
嘘だ!! 他のやつの口から聞くおまえなんて、
全部、嘘だ―――!!
誰にも語らせるものか、
おまえの真実をわかるものなんて他にいない。
いるはずがない。
オレだけだ。おまえの本当、おまえの心の全て。
全部、オレのものだ。
そう叫びながら――
おまえをさがした。
あの炎のなか、
おまえだけ。
おまえを護れと放った、あの虎にさえ、
心が灼けた。
おまえの手があの霊獣の背に置かれていたから。
おまえの目にさえ嫉妬した。
オレをおまえに見せることを拒んだから。
――それは本当ですよ。
優しい声。
――私が頼んだんです。
嘘、だ…。
必要となんてしていないと言ったのは、あなた。
代わりなどいくらでもいると言ったのも、あなた。
……ならば、せめて殺して、あなたの手で。
理由が要ると言うのなら、ここに捧げる。
裏切り者を殺しなさい。
私を殺して――自由におなりなさい。
行きなさい。
――生きなさい。
私ガ要ラナイノナラ
俺ノ愛ガ不要ナラ――解放シテアゲル
行キナサイ
生キナサイ
さ き
おまえのいない未来で――――?
ふと胸のあたりに違和感を覚えて、高耶は我に返った。びしょ濡れのシャツのポケット
をさぐる。
(え…っ?)
・ ・ ・
何か――自分をこの豪雨の中の炎の前に引き戻した声のようなものは、ここへ入った、
確かに。
慣れ親しんでいたあの小さな珠、自分に生命を返してくれたあの珠が。取り出した掌の
上で、二つに割れていた。たちのぼった微かな響きは――。
あにさま!
直江さま!
―――さん。
・ ・
いくつかの声の織り合わされたその音に、更に重なった、声。そう、声。――それでは
・ ・
ない。それではないが――共鳴する何かが、近い記憶から引き出される。
――いっとう優しいことをしただけです。
…直江を責めてどうなる…?
変わらず優しかったじゃないか。
胸の中では、もう見限っていたのに、
心を配り、思いやって、新しい自分の時間もけずって。
責めるなんて――。
「いっとう優しいことをしただけです」
けれど、真弓――そう猪飼らしくはないと思った、あの笑みは――。
"いっとう優しいこと"
夏の庭の家、微笑む男。
きれいでまろやかでここちよくてあたたかくてつつまれて――。
破れなかった――空気。
二つに割れた珠を見つめたまま、高耶は眉をひそめた。
聞きたかったこと、彼の口から教えてほしかったこと。
伝えたいこと、言いたかったこと、言えなかったためにさすらった飢えと乾きの苦しさ。
優しく美しい夢のような時間を壊せなくて、
過ぎた時を甦らせることを押しとどめ、飲みこみ――。
でも、それは。
誰が?
高耶は息を呑んだ。
オレ…?
オレ、だ。それは確かにそうだ。
でも―――
誰、が??
誰、がそうさせた??
考えろ、考えるんだ。
直江はオレをよく知ってる。
オレよりも知ってる。
オレが何かあれば、悪い方へ、悪い方へと考えはじめる、
疑い深く被害者ぶる人間だと、あいつはよく知っているのだ。
そうやって自責に酔ううちに、何ひとつできなくなって、
ついには苦しみに向き合うこともできなくなって逃げ出す、
一番弱い部分を知っている。
そうだ、おまえの前では強くあらねば。
おまえに失望されたくない、去られたくないとおびえるオレが、
一旦崩れはじめたら、誰より弱いことを、
おまえの前では、一番弱くもなることを、
おまえは知ってた。知ってて……。
高耶は割れた珠を、ゆっくり握りこんだ。
真実はいつも――もう一歩奥にある。
――怖くない…。
怖がっていては見失う。
事故の現場にすくんでしまったらしいバイクの若者が気になって、戻ってきた男は、目
にした光景に腰を抜かしそうになった。
濡れたシャツが、上半身の筋肉の形をくっきりと見せている。若者は肩へバイクを担ぎ
上げて、そして歩いていた。その輪郭が、ほのかに紅く発光しているように見える。下り
線から中央分離帯を普通の足取りで越えて、のろのろと、ではあるが、まだ流れてはいる
上り線の路面にバイクの車体をゆっくり下ろす。
彼に驚いて、本当に止まってしまったそちらの車線のドライバーの視線など意に介さず、
彼は無造作にホーネットにまたがり、走り去ってしまった。
たった今まで背を向けていたはずの方向へ。
激しい雨の中、紅蓮の炎をあとにして。
事故現場に、やっと消防車のサイレンが近づいてきていた。