水無月の紅玉
とき
12 告解の刻
足のなじんでいない石段を駆け下りて、玄関前のポーチへ踏み込もうとした時、何かが
確かに高耶の心を惹いた。
むしり取るようにはずしたヘルメットを左手にぶらさげ、高耶は誘われるように足を庭
への小道に向けた。少しゆるくなったとはいえ、雨はまだ上がる気配もなく、彼の髪の中
に流れこむ。高耶は応接間の角を廻り、藤棚の前を通り過ぎ――足を止めた。
桜の木の下に立つ男。
濡れそぼって色を失い、背後の木に溶けこむかと見えるその首に、肩に――確かに白い
腕が添っていた。
桜から伸ばされるように、彼を守りたいというように。
白い美しい指が、彼の頬に額に、確かに触れていた。
あの夢と同じ――。
高耶の喉からもれた息の音は、悲鳴に似ていたかもしれない。
蒼ざめた瞼がゆっくり開いて、そこだけは色のある鳶色の瞳が高耶を認めた。白い腕は
すう、と消えたが、指先の残像は高耶の目の中に残った。
形のよい白い唇は、それでも頬よりは色があったかもしれない。雪と氷ほどの違いかも
しれなかったが。
直江はゆるやかに首を傾けた。わずかに口端が笑んだようだった。
「なぜ…戻って来たんです?」
低い深い声――生気のこもっていない。
「…早く…逃げたらいいでしょう……」
いのち
地上の生命ではないかのように――澄んだ声。今にも雨の中、空気の中へ溶けてしまい
そうなほど。天からの水が、無数の腕に変じて彼を抱いている。
「このどうにもならない執着から。断ち切れない狂暴さを増すばかりのこの想いから…」
言葉は血の色をしている。口からこぼれていくたびに、彼の輪郭が危うくなる。身を包
む衣類は濡れて肌に張りつき、すでに左胸の傷痕を隠せない。冷えた白の中に、それだけ
が赤黒く浮かび上がる。不吉な花のようだ。
雨は降り続ける。
直江はゆっくり天を仰いで、笑い声をたてた。
「…いっそ、あなたの骨までも噛み裂いてしまおうか、凍りついた地の果てに閉じ込めて、
二度と生を巡らない方法を見つけ出そうか…。
そんな鬼への変化を遂げて、あなたをまた追い詰める前に――」
戻されてきた瞳も心なしか色を失くしつつあるように見えて、笑みは聖性を帯びる。ま
すます地から彼を遠ざける。
「もう…解放してあげると…。いいや、解放してほしいと乞うているのですよ。…この果
てのない独占欲と我執から。
もう――あの永劫は私たちの前にはない」
理想郷はすでに道を閉ざし、永遠も手の内から砕けて落ちた。残ったものは。
直江は左手を胸にあて、目を伏せた。濡れて重い色になった髪から、熱を奪う雨がした
たる。
「…実りある人生で締めくくるといい。
…この執着から、あなたは今度こそ本当に自由になれる。
人の環に戻り、一人の――仰木高耶という、ただひとつの存在の歩む道に戻って…そう、
あなたは俺になど会わなかった。
おだやかに年を重ねて、様々な人たちと交わって――誰かを愛して、愛されて」
左手首にあるはずの傷は、今、胸の傷と重なり合っている。
「安らかに生きていける」
「……そんなこと許さない」
低く押しだされた高耶の声にこめられたものが、直江の目を上げさせた。
ゆらりと人の形の炎のまぼろし。
相対して立つ高耶の目は、雨の向こうから強く彼を射抜いた。
「…おまえが! …自由になって解放されて!
橘義明という男になって誰かを愛して――!」
荒い腕の一閃で、ヘルメットが芝の上へ投げ出される。
「おまえが誰かを愛するなんて触れるなんて――そんなこと、オレは絶対に許さない!
オレ以外の誰かに目を向けるなんて許さない!!」
ざ、と高耶が近づく。瞳は一瞬たりとも直江の目を離さない。
「おまえはオレのものだ!!」
右手が直江の左手首を掴んだ。
「オレだけのものだオレひとりの!! 誰にも渡さない、どこへも行かせない! おまえ…
っ!!」
残る左手が直江のシャツの胸元を掴み、がっと引き寄せる。
喰いつくような勢いで、唇に唇を重ねた。驚きに開いた口の中へ、舌が暴れこんで荒々
しく動く。冷えた唇がつられて意志を示し、直江の肩に力が走った。より狂おしく技巧の
ない強さで、高耶は彼から応えを掴もうと挑みかかったが、ふ、と再び力を失くした腕は
だらりと垂れて、そこに熱は甦らなかった。
唇が離れ、高耶は間近にある直江の目を見つめ続けた。瞳は暗く深く、傷痕そのものの
ように光を呑み――苦しみ哀しんでいた。
彼は自らを憐れんだりはしないが―――。
この苦しみは――聖堂で独り罪を見つめ続けた少年の姿をしている。
自分の罪の惨さを、高耶は今こそ思い知る。
記憶を取り戻しはじめた時、千秋や綾子の働きかけを、何故あんなに激しくはねつけた
のか――それにさえも思い至る。
二人だけの、二人の間だけのことだったなら、二人で癒せたはずだった。これまでそう
だったように、互いの関わりで――たとえ、それが胸を引き裂き、心を抉り合うような形
であっても――修復できたはずだった。
だが――自分は間に他者を引き摺りこんだ。
美奈子。
彼女の慰めにすがったのも求めたのも、本心には違いない。
だが一方で自分は――誰よりも欲しい唯一の者をより強く得るための、昏い生贄を見つ
けたのだ。
罪の鎖で、直江をより重く縛り付けるために。
奪われても搾り取られても、枯れることのないはずだった彼の想い。誇り高く己を何よ
り愛し、人の理想へ近づくことを求めてやまない男が何度も疑い、確かめ、逃れようとした末に認めた愛という名の真実。
それこそが欲しかった。掴み続けていたかった。
だが。
だが、その罠は彼の源を、湧き上がる泉そのものを傷つけてしまった。癒すことのでき
ない傷を負わせた。
贄のはずの美奈子は――澄んだ瞳の人は。
彼女はまっすぐに、こちらを見つめていた。
「わたしだけがわかるの」
冷たい直江の手首――高耶の手の中にあるはずのあの傷が、彼の生気をその身体から流
してしまう。彼の苦しみは――ほどなく彼を殺すだろう。
美奈子。
かのひと
昏い罪によって身ごもったはずの彼女は、母になると告げた。
彼の聖母に。
彼を安らがせ、彼を癒すと。
彼を抱きしめ、彼を暖めると。
その白い腕で彼を―――。
目が眩む。
失われた美奈子。
直江のために降臨したはずだった聖母。
罠に落とされ、苦しむ彼を、
癒すはずだったひと。
彼の胸の傷――炎の萩で。
・ ・ ・
彼は苦しんで苦しみ抜いて、死んだのだ。
オレが…死なせた。
――あなたを一人にはしない…。
オレへの誓いを守って、彼はここにいる。
けれど直江の心の一部は死んだままだ。オレが死なせたままだ。
彼はどんどん弱くなる。
狂うほどの想いに耐えてはいけないと思うほど。
そして、どんどん強くもなる。
オレから離れようと思うほど。
そんなことはいやだ。いやなんだ。
けれど―――。
高耶の瞳が初めて揺らいだ。
けれど――
代償を――払わなくては。
この男が今度こそ、オレを見限るとしても。
今度こそ、この卑劣な臆病者に愛想を尽かすとしても。
この――告白だけは。
「オレは……オレは、直江…」
高耶の手が、小刻みに震えはじめる。自ら胸に突き立てる刃。
「オレは美奈子を――憎んだ」
今こそ裂いてみせろ、
自らの醜い本性を。
「オレを――まっすぐ見て」
――わかるのは、わたしだけなの。
あの人の苦しみを理解してあげられるのは、わたしだけなの。
「そう言った美奈子の目を――オレは憎んだ」
オレなんかより強い美奈子。美しい美奈子。
おまえを癒したいと言った美奈子。
おまえの苦しみがわかるのは自分だけだと微笑んだ美奈子を。
オレは恐れ、嫉妬し、憎んだ。
その聖母の微笑みを。
おまえを最も傷つけるために選ばれた聖女。
おまえが自らを責め続ける苦しみを負わされるための贄。
そうなるはずの。けれど。
白く小さな美しい手の――
彼女は直江の片羽になるひとだった。
高耶の震える手が、力を失う。
それでも――目はそらすまい。
「憎んだんだ…。憎んだ。
おまえを奪っていく、と目の中で言った美奈子を」
あの時――彼女は『全て』だった。
澄という名の幼い妹――。
直江を恋した藤――。
彼を想う全ての人々――
オレを彼の中心から、ひきずりおとすかもしれない
『全て』の―――敵だった。
「だからオレは美奈子を憎んだ。
誰よりも憎んだ。
引き摺りこんだのはオレ。
犠牲にしたのは、オレだったのに、
自分だけがおまえをわかると言った美奈子を…。
オレは憎んだ。」
高耶の手が直江から滑り落ちる。
目はそらすまい。それだけは――。
欲しがりながら、手を伸ばすことができずに深めていった狂暴な想いは、いつしか強い
毒になってしまった。関わる何もかもを汚染し、一番大切なものまで――壊した。
もういい。もう永遠はオレたちの前にはない。
だったら、この男をオレにください。
"世界"は、一人の人間の有限の世界は、
明日にも、いや次の瞬間にも終るかもしれない。
オレは沢山の過ちを繰り返した。
愛という名のエゴのもとに。
乞う資格などない。けれどください。
彼方へ、今一度願います。
彼をください。
それだけが望みです。
今は炎ではなく、天からの水が二人を打ち続ける。
瞳を結び合わせ、高耶は告げる。
「おまえを愛している」
もう涙をとどめることができない。頬だけが、熱い流れに濡れる。
静かにあがる手が近づいてくる。その真っ白な手首に、くっきりと一文字の傷。
不思議がるように、頬のそこだけ熱のある水に触れる指先。冷たい手が頬を包む。静か
に顔を傾けて、高耶は彼の傷を唇でさぐった。
そうして―――
いだ
そっと抱き合う。優しい白い腕をかくした桜の下で。
なおえ
彼は天の癒しを振り捨てた。
そして堕ちてきた。罪に染まったこのオレの手に。