水無月の紅玉
13 炎の紅玉
フランス窓の向こうには、わずかに暖気が残っていた。
指先に触れる直江の肌はひどく冷たくて、高耶の心の奥に紅い痛みを呼び戻した。ひき
つるように、こみあげてくる嗚咽を押しつぶしながら、高耶は応接間の隅へ直江の衣類を
投げた。
ぐっしょりと雨を含みきったそれらは、重い音をたてて絨緞の向こうの床板の上に落ち
た。
いつの時代の物ともわからないと聞いたソファのキルトのカバーを剥いで、直江の肩を
乱暴に包みこんで暖炉の前に座らせる。
涙を流れるにまかせて押し黙っている高耶を、彼は問いかけるようなまなざしで見上げ
た。高耶は痛みをこらえるように唇を引き結んで、暖炉の脇にあった薪を全部炉にくべ、
灰の中の埋み火に力を送った。たちまち勢いづく炎の照り返しを浴びながら、高耶もまた
濡れそぼった服を脱ぎはじめた。
最後の恐れを剥ぐように。
暖めたかった。今度こそ。
身体の熱を分けて、取り戻したかった。
――置いていかないでくれ。
オレをひとりにしないでくれ。
掠れた声で口にする哀願に応える腕は、まだひんやりとしている。
まだ充分じゃない、まだ。
熱く熱く、どちらの身体から放射するものなのか分からないほどに、身の内の熱を交え
なければ取り戻せない。
――高耶さん。
耳元で囁かれた声が、身体の中へとまろび落ちていく。
炉辺の熱と炎の輝きを糧に、互いへの酔いを露わに、四肢を絡め貪りあった。瞳に映る
炎が紅玉の光を放ち、肌を焦がした。
――明日、世界は終るから。
官能の波に浚われて、むせびながら口にする言い訳。
――……そうですね…。
肯定してくれるただ一言が、そのまま極上の愛撫になる。
は
夏の暖炉に踊る炎が、濡れた肌を舐めるようにゆらめき、切なげな吐息は木片の爆ぜる
音に呑まれた。
本当に、明日、世界が終るなら。
オレは終わりゆく世界に向けて、迷うことなく言えるだろう。
幸福だと。
欲しかった"ただひとつ"。
悦びに溺れる"今"のまま全てが終れば、永遠が手に入る。
抱きしめて愛しんで、永遠を誓うオレの"ただひとつ"。
触れる、ということに、これほどまで心が満たされて――満たされすぎて苦しいと、
オレはやっと知ることができた。
今――終ってしまえば。
至福そのものが手に入り、もう失うことはない。
奪われることもない。
「直江…」
ただひとつの。
けれど世界は――。
早い朝の薄闇の中で、高耶は目をこらす。
世界は終らなかった。
左頬を絨緞に押しあてて、暖炉の白い灰を、高耶はぼんやりと見つめている。心地良い
厚みを備えた布の波の中、背中から彼を抱くもうひとつの熱い身体。首筋にあてられた柔
らかさ、優しすぎる唇の感触に、高耶は目を伏せかけた。
「あなたは俺のものだ」
深い声が肌を伝って、高耶はぞくりと肩を揺らした。
「あなたはもう俺だけのものだ」
うながされて振り向く。真摯なまなざしがそこにある。生命の輝きを取り戻して――熱
く。焦がれていたものに、ようやく出会えた。
「今日、世界は終らなかったけれど、俺の誓いも終らない。
疑うなら伝え続ける。信じないのなら誓い続ける。
あなたの側にいる。あなたを離さない。
この我執さえあなたのものだと言ってくれるなら、もう何が起きようと」
「直江…」
「愛している」
抱き寄せる強い腕。高耶もまた彼の肩に腕を回した。
(オレのものだ…。オレだけのものだ)
正義の名の下に繰り返した罪。いつしか、このぬくもりに会うためにだけに生き続けた。
失いたくない。誰のものにもしたくない。
その貪欲のために。
裁かれる日が来るのなら、受けとめよう。
ともにあると、離さないと言うオレの"ただひとつ"を信じたい。
もう分かたれることはないのだと――
生きるには互いが要るのだと叫ぼう。
終らなかった世界に。
触れ合った唇が角度を変え、より深い口づけになろうとした時、古いキルトの波に揉ま
れた二つの身体の間で――空腹を訴える音が低く響いた。
高耶がぎょっとして――そして赤くなって、腕の長さ分だけ身をひいた途端、もう一度
もっと高らかな音程で、彼の腹が吠えた。
一瞬の何ともいえない沈黙のあと、直江の口の端がぴくりと動いた。彼は顔をそむけ、
ぱし、と片手で口元を押さえ――だが…抑えきれなかった。ぐっ、という音とともに震え
はじめた男の肩に、高耶の理性が別の方へふっとぶ。
「こっ…これはだなあ!! だって…畜生…っ!」
首から肩、胸へと広がっていく紅潮でがなる高耶の苦闘をよそに、苦しげな忍び笑いで
耐えていた直江は、ついに手を口から離し、キルトの上につっぷして笑いだした。
「やめろって、おい!!
お…まえ、本当にしれっと無礼者なんだからなあっ!!」
なかなかおさまらない直江の笑いの発作に、高耶は歯噛みしてゲンコツで彼の頭を小突
いた。
「いや…いや、すみませ…ん」
何とかこみあげるものを呑みこんで直江は身を起こしたが、目を合わせた途端、また唇
の端がひきつるのを見て、高耶はびたっと両手で彼の頬を押さえた。その手を更に直江の
手が上から包みこんで掴み取った。そっと指先に彼の唇が触れ、高耶は小さく身震いした。
「食事にしましょう」
ひどく優しい声で彼が立ち上がった。
「あなたは母屋の浴室を…。何か衣類を用意しておきます」
乱れた髪の下から微笑みかける男は、何も着ていないとは思えないほど落ち着いた立居
振舞を見せ、高耶はまた頬に血をのぼらせた。さあ、と手を取られて、ままよ、と自分も
立ち上がる。小さくかすめるような口づけを合図に、直江は高耶を浴室へと送り、自らは
離れの方へと消えた。
機械的に湯をはった浴槽に身を沈めて、高耶は小さく溜息をついた。鼻腔に残る香りは
――緑の匂いだった。
思ったより長くなってしまった湯浴みから出ると、脱衣場の籐かごには新品らしい水色
のスウェットの上下が乗っていた。漂うベーコンの焼ける匂いに誘われて、ますます自己
主張を強める自分の胃に呆れつつ、高耶は台所に入った。
必死の愛を語り合って、それに伴う肉体の意味を知っても――
それだけじゃ生きてけねぇよ、と身体は言うわけだ。
フライパンを操る男の白いシャツの背を、甘やかな胸の痛みとともに見つめて、高耶は
そんなことを内側でつぶやく。照れが混じってどうしようもなくて、ぶすりとした赤面で。
直江が振り向く。微笑みはとても近くなった。
スクランブルエッグを二つの皿のベーコンの上に乗せながら、聞いてくる。
「トーストは二枚でいいですか?」
うなずきかけて、高耶は首を振る方へ訂正した。
「あるなら、三枚…。あ、オレがやる」
「…父上の四十九日までは待ちます」
食べはじめると、いかに空腹だったかを――そう昨日はろくに食べていなかった――思
い知った高耶が、三枚どころか四枚目のトーストを腹に収めたのを見計らったように、直
江が言った。
上げた高耶の目をまっすぐに見据える瞳に、高耶はぞくりとし、その熱さに酔った。
「けれど、その後はもう誰にも遠慮しない」
低い声に込められた独占を誇示する響きに、心が痺れる。
立ち上がった直江が、彼の顎を取って口づけるのを陶然と受けとめる。二度三度と軽く
合わせるうちに、高耶ももがくように立ち上がり、相手の唇を追い彼の背を掻き抱いた。
羞恥も、古い記憶の残した痛みも、今は押しのけられていた。
直江に触れている――それだけで。
「…離れに行きますか?」
くぐもった声にうなじが震えた。
「ああ」
素直に答えた自分に、高耶は微かに笑った。