水無月の紅玉
15 世界が終るまで
(緑の匂いだ)
それだけで――のぼりつめてしまいそうだ。
汗の匂い、触れる寸前に指の熱を感じ取って、震える身体。内をめぐる血流がそこかし
こでその熱を捉えて、肉体の奥深くへ火をつける。間近に在る――というだけで、こんな
にも息が熱く、そして切なくなる。餓えが満たされても、すぐにもっと深い貪欲が生まれ
て、邪悪な獣のような自分が悲しくなる。さらけだされる自分を嫌わないでほしい、失望
しないでほしい、去らないでほしい――哀願が瞳に浮かび上がってしまう。こんなに弱く
て無様な自分という存在が悲しい。おまえの想いに値しない自分が――。
「…声、抑えないで…」
必死でかぶりを振ると、更に身のうちを狂わされて、噛みしめた歯が解かれた。
「…このまま溶けてしまえたら…」
耳元で紡がれる、情欲の果てのかすれた願いの言葉。
すがる腕に想いをこめる。
(オレだけの…)
伝わることを願って。
「…直江…、もし――」
そっと髪を梳く長い指の動きの心地良さ。緑の匂いのシーツを抱きながら、半ば目を閉
じて、高耶はつぶやいた。
「…おまえの言う最悪の時、になっても…オレがおまえを殺せなかったら」
身体を返して、高耶は男と向き合った。
どうするつもりだった?と問う目を受け止めながらも、直江はしばし語らなかった。
「わかりません」
ようやく囁くように答えて、目を伏せる。
「あなたにこの関わりの終りを選んでもらうことが、俺の終りであり…俺という意識の終
着点なのだと…。それしか考えていなかった」
笑顔の装いを解いた直江の頬は、まだ白く憔悴していたが、それでも生の息吹が仄見え
る。
高耶はこらえきれず唇を重ねていった。何度も何度も、飽くことなく口づけを繰り返し
て、想いを注ぎ込む。応える腕の強さに、固く身を寄せ合った。
「…終りなんか…ねぇよ」
ぶっきらぼうに絞り出された言葉に、直江が深い息をついた。
しかしながら世界は終っていないのだから。
・ ・
それは脳の中へ直接来た。
じか
びしいっと白い稲妻のようなものに、脳の中を直にひっぱたかれたようなショックがあ
って、飛び起きた高耶が涙目で思わず頭を振ると、傍らではやはり上体を起こした直江が、
額を押さえてうつむいている。
「いっ…いっ、今…」
舌がもつれそうになる高耶に、
「………………………長秀ですね………」
直江が地の底から響くような声で唸った。
一瞬の硬直の後、彼は素早くベッドから下り、身支度を始めた。
「…あなたは休んでいて下さい」
「馬鹿言え! こんなふざけたマネ…」
高耶も続こうとしたが、直江ほどスムーズにはいかなかった。身体にあちこちグチる部
分があって、不本意な、あた〜、という情けないつぶやきがもれる。その頬へ、すっと直
江の左手が触れて、甘やかすようなキスがこめかみをかすめた。優しく微笑って、直江は
部屋を出て行った。
何だか気が抜けて、へた、とベッドに前のめりになった高耶だったが、寝具に残る香り
に少し胸がつまった。しかし。
「そだ、千秋のヤロー…!」
直江ほどてきぱきとはいかなかったが、脇の籐椅子の上にあった借り物のスウェットに
手を伸ばした。
玄関をあけると、案の定、木製の待合に千秋修平がでんと座っていた。
ベージュのチノパンに何を考えたか雪駄で、右足を横ざまに左の腿の上に乗せ、Tシャ
ツの上にジャケットのように着ているアロハは、オレンジの勝った赤いハイビスカスの模
様(それに合わせてか、今日の髪ゴムは金ラメ入り蛍光オレンジ)。細めの銀ブチ眼鏡の奥
・
から、ぎろりと見上げる目は凶悪で――どう見てもどチンピラ。
斜め前に立ったワイシャツに灰黒のスラックスの直江は、どういうものか腕組みから上
げた右手で口元を押さえており、少し眉間に皺を寄せて――赤面していた。
珍しいロケーションに、ちょっと声を忘れた高耶が千秋に目を戻すと、相手はじいっと
彼を見上げ、その目つきとは裏腹な静かな声で口を開いた。
「…お前、幸子おばちゃんと美弥ちゃんに約束していただろう」
突然出た名前にえ?と目を見開いて、高耶はあ、と、わ、の中間の声をこぼした。
「一日一回、ちゃんと連絡入れるって。…最後に電話したの、いつだったか覚えてるか?」
落ち着いた千秋の声に、高耶はよけいあわあわする。
「あー…えっと…」
「教えてやろう、三日前だ」
千秋は大きく息をついた。
「…お前、成田がそれにいちいちチェック入れることぐらい、想像しなかった?」
「譲が?」
「最初に騒ぎ出したのは奴の方だ。美弥ちゃんはそれでも静観のかまえだったが、昨日と
うとうお前の携帯にかけた。お前は出なかった」
そ…そういえば、ケータイどこへやっただろ、などと不用意なことを高耶はつぶやき、
千秋は右眉をつりあげた。
「『ほんとはお兄ちゃん、少し変だったの、最後の電話の時。でも大丈夫だって言うから、
信じたかったの。でも、電話くれない。あんなに約束したのに』」
ことさら美弥の真似をしているつもりはなかったらしいが、微妙な言葉じりのニュアン
スは伝わった。
「朝っぱらから成田にどなりこまれて、けなげな少女の半べそ聞かされて、また成田に、
これからすぐ東京に行くなんてわめかれて、ちがう、ありゃ神奈川だ、なんていったら、
また歯むかれて」
千秋は、にこおっと笑った。
「とにかくお前らにゃ日常があるんだから、あんなバカップルのことなんて忘れてろって
言ったら、壮絶な二重唱になっちまって」
これ以上赤くなれない、という赤面で、ぼうっとしてしまった高耶に千秋の笑顔が凶悪、
へと傾く。
「そんで、はるばる松本くんだりから、途中、渋滞に巻き込まれたり、高速事故で足止め
くったり、サービス・エリアは満員で月見ソバ食えなかったり、イライラして自販でボタ
ン間違えて、ネクター落ちてきたり―――」
千秋はゆらりと立ち上がって腕組みした。
「よーやっと、ここへ着いたら――ま、詳しくは語らないでやるが――出てこない住人を
待ち続ける俺もたいがいお人よしで、さすがに腹立ってきたわけよ」
怒鳴られた方がましだ、と高耶は本気で思った。
つまり世界は終っていないので。
とりあえず家に入って電話、となったものの、直江は先刻はあえて見ないふりをした床
を這うファクス用紙の大蛇と、留守番電話の『メモリーが少なくなっています』を無視し
きれず、高耶は、自分の電話を捜すより先にとにかく一言連絡しろ、と言われて、千秋の
携帯を借りた。
二人が、おろおろと、なおざりにした外界の逆襲に相対している間、千秋は一人台所の
探索を進め、冷蔵庫とレンジを活用し、更には御飯を炊く間に手際よく三品ほど作って、
まめまめと茶の間に夕餉の席をしつらえた。
まだ夕焼けは始まったばかりだったが、三人とも空腹という点ではしっかり一致してい
たので、結局きちんと座って行儀良くいただきます、と頭を下げあった。
まず最初に、がつがつと御飯だけかっくらって、おかわりをよそう千秋に
「…ビール出してきたらどうだ?」
と、少々機嫌を伺うように直江が声をかけると、彼はふんと鼻を鳴らした。
「馬鹿言え、俺は帰んだよ。レパちゃん、上に止めてんだ」
二杯目もてんこもり。
「お前らは飲めば?」
フキゲン、の彼に切り返す術がなくて、高耶が立とうとすると、直江が水をさす。
「あなたはまだ未成年でしょう。駄目ですよ」
「…って、もう十代は一ヶ月もないんだぜ??」
「そーだ。そして大検もすぐその先だ」
嫌味のふりかけられた千秋の口調に、高耶はう、とつまる。
「受かれよ、妹に心配かけんな」
この口調は優しく諭すようなものだったので、高耶もうなずく。
「そしたら大学もさっさと入れ。どーせ上京だろう。ここで、うずうずしてる奴がいるか
ら」
直江が憮然と箸を使う。
「まー、お前も『○○恋しや、ほーやれほ』全開だよな。いんじゃない、平和で」
高耶は首まで赤くなって、歯噛みした。
「でもな、受かるまでは松本にいろ」
目を見張った高耶を、千秋はきり、と見据えた。
「幸子おばちゃんや美弥ちゃんや成田や加山や森野さんや…。みんなを安心させろ」
きっぱり言って、千秋は直江に視線を移した。直江も真顔で見返した。ややあって、彼
はひとつ息をつくと、高耶へと小さくうなずいてみせた。
勢いこんで口を開きかけ、高耶は箸を止めた。しばしの沈黙のあと、直江と目を合わせ、
ぽく、とうなずく。
「…待っていますよ」
高耶に向ける直江の優しい声はおなじみだったが、奥に甘い響きがあるのを敏感に聞き
取った千秋は、内心けっ、と毒づいた。
「越野氏とか峰とか…。お前、無愛想なりに支持者ふやしたよな。その調子でがんばっと
け。美弥ちゃんは地元の大学希望してんだろう。あの子の周りをできるったけ暖かくしと
いてから――」
千秋は唇の右端をきゅっと上げて笑った。
「お前も旅立て」
そう、世界は終らない。
・ ・
だから上手に生きろ、と、千秋は言う。
できるだろ、とも。
周囲を思いやれ、うまく立てとけ。
まったくいつからあんなに――。
「世渡り上手、と言うんでしょうね、多分」
走り去るレパードのテイルランプを見送りつつ、傍らの直江が笑った。
そっと出された手を握って――もうすっかり暗いから――二人でゆっくりと石段を数え
ながら下りた。
雨はいつやんだのかな、とふと気をそらしたら、高耶は何段下りたのか分からなくなっ
た。
「ああ…、美弥が、礼言ってこいって」
「はい?」
ひときわ濃いバラの茂みの脇で、二人は足を止めた。視線の先に夜目にも輝く白い大輪
がひとつ、地上の月のように咲いている。
「葬式の日の…。あの白いバラ、おまえなんだろ?」
花を見つめて、二人はしばし言葉を呑む。
「……送るだけ、と自分に必死で言い訳しました…。でも気付いたら――松本にいた。
もう…どうしたらいいかわからなかった…」
その声に滲む彼の煩悶が、高耶にも痛く、そしてどこか――嬉しくもあった。あのうつ
ろで空しい日々が、己だけのものではなかったと知って、どうしても喜んでしまう自分が
いる。
「美弥は気付いてた」
「…そうですか」
あなどれないなぁ、とわざと茶化すようにつぶやく直江の手を、高耶は強く掴む。
「…会いに行けって言われた。…オレはほんとに臆病者だ。おまえはそれを解ってて…!」
声を滾らせかけて、高耶はぐっとこらえて腕を直江の肩へ伸ばした。口づけて互いの背
に指先を埋める。大気が初夏の息吹に満ちて、呼吸も染まりそうだ。
「…もうどこにも行くな」
低く熱のこもった早い口調に、直江が高耶の耳元で応える。
・ ・ ・
「…俺はあなたのものだ。たとえ終ってしまっても…永遠に」
高耶が荒い息を吐いて見上げる。その強い瞳に直江は淡く笑った。
「…そのつもりでしたが」
「んなこと許さねぇ」
高耶から押しつけられてくる唇は狂暴だ。
「言ったろ、終りなんて来させない。おまえはオレのものだ」
世界が終っても。
熱い沈黙をなだめるように、直江が笑いを含んだ声でつぶやく。
「でも"世界"とは折り合いをつけなくちゃいけないんですよ。
長秀の…千秋の"教育的指導"は口惜しいけど正しい」
「…そうだな」
ほんっとーにクヤシイけどな、と本気でイヤそうな高耶に、直江はまた小さく笑った。
静かに問う。
「とりあえず…明日、戻られますか?」
「ああ…」
答えてから、高耶のうなじに血がのぼった。思わずかぶりを振る。
「…明日…明日は土産探しぐらいは…。おばちゃんとか美弥、譲にも…」
そこで高耶は棒立ちになった。
「ちょ…ちょっと待て、オレ、まだ一校もまともに見てねーじゃん、大学!!」
一段先に下りていた直江が、あ、と口をあけた。
門灯の下で、笑い声が重なって夜風に戯れた。
水無月の庭で薔薇が揺れる。夜の中へさしあげる灯のように。
もうすぐ本当の夏がやって来る――。