トパーズ
睦月の黄玉
建物を振り仰いだそいつの目が、澄んだ淡い黄金色に見えた。
よく似ていた。
オレの知っているあいつと――。
1.
確かめておきたい品物は、所蔵していた家の主の死とともに開港
資料館に寄贈されたときいた。四人そろって見に来るほどのもので
もなかったが、情報交換するいい機会だと綾子が主張して、
直江とともに高耶と千秋に合流してきたのだ。
「んで、中華街ーっ!直江のおごりーっ!」
彼女が元気よく笑って見せても、固い空気はほぐれない。高耶と
直江は事務的に二言三言、言葉を交したが、信号音がとびかったの
かと思うほど――色も熱もなかった。彼女は道化になる覚悟を決め、
先を行く直江に、あの店がいい?どこそこの店は最新の”○△×”
に載ってたようっ?と、声をかけ続けている。千秋はパーキングエ
リアに止めて、用を足したすきに最愛のレパードにかき傷をつけら
れたことで、すっかりふてくされているし、どうにもいい空気には
なりようがない。おまけに問題の品はここにはない、というオチも
ついてしまった。それぞれに資料館の出口へと歩く。高耶は歩調を
おとし、階段の踊り場で立ち止まった。階段を降り切った直江と綾
子が、出口へ向うべく廊下を右へ折れる。ちらりと整った直江の横
顔が見えた。端正な…だが血の通っていない彫像のような印象だっ
た。高耶はゆっくりと踊り場の窓をのぞきこんだ。
暖冬という当初の予想を大幅に裏切る寒さが、ここ横浜をも襲っ
ているらしい。年末から三回も大雪に見まわれ、首都圏はその交通
網の弱さを飽きもせず露呈する。この一週間ほどは、小康状態の天
気の良さだったらしいが、それも今日の夕方までだとラジオの天気
予報が言っていた。今晩から雨か雪に――。
高耶は資料館の前庭に立つ一人の少年に目をとめた。黒のダウン
ベストに明るいグレーのフィッシャーマンズセーター、黒のジーン
ズ。年は高耶と同じくらいか、わずかに年下か――背丈も同じくら
いだろう。しかし、軽く足を開いてしっかり立った身体の安定の良
さ――なのか、それとも身体つきそのものなのか、が、不思議な既
視感を呼びおこす。
彼は六号くらいのスケッチブックをかまえて、この建物をスケッ
チしている。スポーツ刈りの少し赤茶けた色のような頭は、どう見
ても体育会系で、彼のやっていることとミスマッチな印象がある。
だが、うつむいて鉛筆を走らせる彼の顔は真剣で、学校の宿題、程
度のおざなりのものではないようだった。
すっと少年が顔をあげ、建物を振り仰いだ。それまで、かげって
いた陽が、呼応するように雲間から光を投げる。少年の左目がきら
りと陽光を映して、澄んだ淡い黄金色に輝いた。
高耶の心の底で何かが弾かれ、はかなくきらめくような音を発し
た。
――”トパァズ”
それは――ずっとさがしていた言葉だった。今見ている少年のた
めではない。ほんの少し前まで、こんなものでしかない、と投げや
りに扱いかけていた彼の生をまるっきり変えてしまった者の――あ
の男の瞳が放った光のために。
――なんで今頃…っ!
思いだせた喜びより、いらだちが高耶をとらえた。そのいらだち
をよそに、記憶は鍵をきっかけに鮮やかに甦る。
教科書にのっていた詩の一節だったのだ。死に瀕している女性が
欲しがっていたレモンの…。その滴を”トパァズ”と表していた。
・
――『「トパーズ」と表記するのが丸なんですけどね、今の国
おうぎょく
語表記では。宝石で和名では”黄玉”といいます。』
中学生になって初めての国語の授業。赤っぽいフレームの眼鏡を
かけた年配の女教師は、暖かい声をしていた。
――『でも詩の中では融通がきくんです。時代もあるけど』
そう言って彼女は古めかしい緑のビロード貼りの小箱を取り出し、
廊下側の一番前に坐っていた高耶のところへやってきた。新クラス
は五十音順に坐っていた。どういうものか、このクラスには青木だ
の井上だの、というありそうなア行の姓の男子が仰木までおらず、
彼が一番だったのだ。
・
――『これトパーズ…いえ、”トパァズ”ね。私の母の物だった
の』
小さなふわりとした白い手が、彼の手の上に開いた小箱を乗せた。
――『回してね、仰木君』
一滴、ぽつんと落ちた蜂蜜みたいだ、と彼なりに精一杯詩的な表
・ ・
現でそのトパーズのついた金の指輪を鑑賞し、後ろの大島に渡そう
とした時、石は光を映してきらりと光った。
――”トパァズいろの香気が立つ”
詩の一節は、静かに彼の中に根を下ろした。
そして――今になって心の表層に現れたのだ。息苦しいような気
まずさを伴って。
高耶が、筋ちがいな憎しみのようなものを目に浮かべて、スケ
ッチブックを抱えた少年を見つめ直した時、彼がふと、左手に目
をそらし、驚いたような仕草で両手を降ろした。そのまま、左側
――この建物の入口の方へ小走りに消える。
高耶も我に返り、わずかに苦笑して階段を降りはじめた。
―なに、やってんだ…
い ま
<力>をふるう直江を初めて見た時――。この現在の眼が初め
て見た時から無意識の内で捜していた言葉は――これだったのか。
高耶は再び苦く笑って入口の方へと足を向けた。入口手前の右側
には、絵ハガキや、カタログを扱う小規模な売店がある。その後
ろ、明るい窓にまた目を向けた高耶は眉をひそめた。
先ほどの少年が白い息を吐きながら、笑顔で何かしゃべってい
る。その相手が――。
―!
長身の男は、わずかにコートの衿元をかきよせるように左手を
動かし、少年と向き合ったところだった。まなざしがふと柔らか
くなり、疲れたような暗さを宿していた眉が開く。直江の口元が
淡く笑った。
目が眩む――
今度は、はっきりわかる――と、高耶の胸の奥で低いつぶやき
が響く。これ――は、同じものだ。あの大阪の製菓会社の社長の
片腕として、立っていた時の直江を見た時に彼の中を走ったもの
と――。
―いや…。
高耶は凍ったように体をこわばらせ、窓の外の二人を見つめ続
けた。
―いや…ちがう…?少し…ちがう…のか?
何がちがうんだ、と冷たい自分自身の声がする。どんな言い訳
を用意しようとしているんだ?と。お前の中に渦巻いているこの
冷たい炎――その名前を知らないとは言わせない…。
黒いダウンベストの少年が、笑いながらスケッチブックをかか
げて直江に話しかけている。直江は微笑みながらうなずき、手を
差し出した。少年が、う、とつまったように首をすくめたが、照
れたように笑って、スケッチブックを彼に手渡した。青年は、ほ
う、というように唇をすぼめ、ちらりと建物と描かれているらし
いそれとを見比べ――そして、今度ははっきりと笑った。
高耶がぐっと唇をかみしめたのと、開いた入口から千秋が声を
かけてきたのとは同時だった。
「景虎ぁ、なにぐずぐずしてんだよぉ、こんタコ!」
そこへ綾子が近づいてきて何やら言った。千秋はへー、と顎に
手をあてると再び高耶に声をかけてきた。
「おいおい、早く来いよ、直江の…」
言いかけて、千秋はちょっと迷い、澄まし顔になった。
「橘義明氏の甥っ子だってよ」
「甥?」
素直な驚きに目をまるくしたのも束の間、いつか仙台にむかう
列車の中で綾子の言ったことが、高耶の痛む部分に触れた。
―『あいつは自分の両親や家族のこと、本当に大切にするから』
―直江の…。
橘義明の、だ、と千秋のように心で言い直したが、痛がゆいよ
うな感触は高耶の背から消えない。
―直江の甥…。直江の…。
似てやしない。ふっくらした頬、優しいお人よしな感じのする
眉、丸い目…そう心の中でつぶやいた時、再び少年の目が光をは
じいた。
トパーズ
黄玉の色――。
―直江と同じ――。
ぎり、と鋭さを増した高耶の目に、相手はわずかに面くらった
様子を見せた。しかし、ひるまなかった。高耶の惑いは寸瞬にし
て消えた。
―直江が居るからだ。
見知らぬ若者に叩きつけられる敵意が心地良いはずはない。だ
が、彼がおびえもたじろぎも見せないのは――叔父が傍らにいる
からにちがいなかった。無上の信頼。疑う必要など、彼にはない
のだ。
―『本当に大切にするから』
綾子の溜息まじりの感嘆が高耶の中で響き続ける。直江の――
義明のと同じ光のとらえ方をする瞳の持ち主。近づいてのぞきこ
めば、それはきっと澄んだとび色をしているのだ――きっと…。
直江の目が、二人の間をつないだ空気の震えを感じとったのか、
ちらりとかげった。その時、
「あ〜〜っ!いたー!!」
黄色い声がその場の緊張をひっくり返した。赤茶色のフェイク
ファーのコートをはおった――しかし、コートの中はべたべたと
油絵具をなすりつけたとしか見えない白いトレーナーにジーンズ
だ――今風女子大生、という感じの若い女が、門からずんずんと
入ってきた。もともと大きい目にしっかりアイメイクを施してい
るので、ずっとびっくり目のまんま、と見える。しかし、改めて
直江の甥にかけてきた声は、そう”頭からっから”でもなさそう
だった。
「ゆうと〜〜!!何時だと思ってんの、アトリエに帰るよっ!」
少年は、あっ、ととびあがった。
「ごめんっ、しんこさん!!」
直江の甥は、叔父に画塾の先輩の新子さん、こっちは俺の叔父
貴です、と口早に紹介している。
「いつも甥が御世話になっています」
そう、あの深い声で言いながら頭をさげる直江は、高耶の知ら
ない男のようだった。女性と歩きだした少年は、門のあたりで振
向き、手をあげた。直江の右手もそれに応じた。
「さーあ、中華街、中華街っと!」
綾子が浮かれたように言いだすのを、高耶は目でさえぎった。
「まだ、夕食には早い。オレ、少し歩いてくるから」
ええ?と驚く綾子、そっかあ〜?と伸びをする千秋。直江は、
ゆっくり目をむけたが、何も言わなかった。