トパーズ
睦月の黄玉
2.
何の努力もいらない
彼の今の身体の兄弟の子だから、ということで。
大切にされる――当り前
信頼する ――当り前
直江、と心の中でつぶやく
何の命令も伴わず
ただ、直江、と…
海に面した公園は、午後の最後のぬくもりを抱えている。あず
まやを左に見て折れ、ゆっくりと高耶は歩いた。平日にも関わら
ず人の往来が多いのは、さすが観光地横浜、だ。一つベンチがあ
いていた。高耶は皮ジャンのポケットに手をつっこんだまま、そ
れへ身を預けた。
―愛されて――当り前…。
胸の中で投げやりにつぶやく誰か。高耶は大きくひとつ息を吸
いこんで、ぼんやりと空を見つめる。あの少年の立っていた庭を
・
思ってみる。彼になってみる。
自分のことに専念している。すると、とてもよく知っていて―
―大好きな年長者が思いがけず、そこにいるのを見いだし、驚く。
・
彼はためらわない。その出会いが予想したものではなかった分、
驚いて、そして嬉しいから駆けより――笑いかける。相手から笑
・
みが返ることを疑ったりはしない。おびえたりはしない。彼の瞳
は、その男のものと同じ、と幼い頃から言われているから。生ま
・
れた時からずっとその男は、彼に優しく暖かく接してきていたは
ずだから。
”仰木高耶”だけだった時の自分に、その男がそうだったよう
に――
直江は償いをこめて、今生の家族に心厚く接する。何も知らな
ければ、今のこの生だけが己れだと思っている普通の少年なら、
彼の優しさの根拠など疑う必要もなく、ただ受け止めるだけだ。
甥だというだけで、安心して愛される。
普通の少年だということだけで当り前のように笑みを交わす。
・
胸が――熱くて痛い…。痛すぎる――別の時へと連れて行かれ
る…。
「ああ、美人で性格よくて愛してもとーぜん?冗談じゃねぇ!」
吐きすてるように誰かの声。夜の林の中で――。別の――”時”。
「そんな甘ったれたこと言ってて、あいつに勝てるわけないだ
ろう。魔王様によ!」
木立の間で、いらだちをかくしもしない動きで腕をふる男。今
は千秋修平と名乗っている男。だが、この時は――ちがう体、ち
がう声、ちがう名前。
この時――ここ、では――。
「支えになるなら…仕方ないだろう…」
いらだつ腕の向うで、静かな声。ブナの木に背をもたせかけて、
深く豊かな声。どんなに体がかわっても声がちがっても、彼の魂
・
を宿した音は――。
「守りたい、が最後まであのひとをつなぎ止めるなら、弱点も
弱点ではなくなる」
ひと
「聖女の如き愛する女を守るため、か?」
いらだち怒る若い声。
「涙ぐましいぜ、まったく!!そんな瞬きの夢みたいなもんに今
更すがるのか?あいつ、そこまで落ちぶれたのか!?」
「口をつつしめ、長秀」
深い声を発する男にいらだつ声は矛先を向ける。
「お前もだよ、直江!!」
木にもたれていた男が目をあげる。
「いったい、いつまで耐えられると思ってるんだ。あんまり過
信するなよ!」
深い声の主は黙している。ざわざわと風が二人の間で動めく。
それも足音荒く立ち去っていく若い方の男の気配とともに静まっ
ていく。あとには、深い声、深い瞳の男が一人残される。夜のブ
ナの木立ちに。
彼は空を見上げる。冬の空、凍てつく冷たい遠い星。彼は――
苦し気に目を閉じると、ゆっくり木に押しあてた前腕に顔を伏せ
た。
高耶は――そう、高耶は彼に近づこうとした。ぐっと何かから
抜けだしたような感覚があって、一気に彼の間近へと迫る。広い
背中を抱こうとした。この背にも傷はきっとある。彼を包み、か
ばう翼を宿す背だから。その傷を今は抱き、暖めたいと思った。
なのに――。
―身体が…ない…
恐怖とともに身をさぐる。なぜだ、なぜ…!ふ、と背後を振向
く。”自分”が来た方向を。
木の影に溶けこむように一人の男がいる。星を映した虎の瞳―
―残忍な輝き。
高耶は悲鳴をあげた。だが、それは誰の耳にも届かない。
虎の瞳に高耶は映っていない。彼はただ見つめている。自分を
守り続けてきた男の背を。苦悩に胸をさかれて、くず折れそうに
なっている男の背を。
そして――
―やめてくれ!!
高耶の絶叫は、彼には届かない。彼の唇がわずかに動いて――
景虎は凄絶な笑みを浮かべる――