長月の翡翠
2・
平日の東北自動車道は、空いていた。
心を落ち着かせるために、いつもよりひどく大人しいハンドルさばきで、千秋は愛車を
走らせる。レパードがこんなに静かに走れることを知ったら、高耶はどんなに文句を言う
だろうか、とふと考えて、千秋は眉を寄せた。
(今の奴には、そんなことに気付く余裕もないか)
完璧な頭目、を演じつつ、一方で怯えたまなざしで、ただひとつの姿を捜す――少年と
青年のはざまの形をした"景虎"。
安田長秀が負けたくないと見定めた男が、崩れかけた足元を認めることができないまま、
苦しげに疾走し続けている。
苦しくて喘ぎ続けているくせに、止まることもできず。
走るのをやめたら気付いてしまうから。
呼び続けている名に応える者が、本当は傍らにいないこと。
喪われていることに気付かなくてはならないから。
(――バカ虎)
支えを失くして、べそべそないてる奴とじゃどう勝負すんだよ、千秋は独りごち、前方
の標識に目をとめる。
サービス・エリア
『佐野 S ・ A まで2km』
それより――この呼び出しが何か、だ。
あの言葉を知る者が、他に在るとは思えない。
・・・だとすると・・・?
空いているからだろう。わざわざS・Aの施設から離れた場所に、とめている車はない。
S・Aの南端、雑木林を背に、こざっぱりと整えられた小公園に向かって、千秋はぶら
ぶらと歩きだした。
人影はまばらだ。バラをスケッチしているらしい女性。幼い子供を追い立てながら、建
物に向かう母親。背のないベンチに横たわる白いライダースーツの若者。缶コーヒーを飲
みながら、談笑している背広姿の中年男性二人。
のどかな午後。
さりげなく目を配り、"気"の触手を伸ばしつつ、千秋は手にしている東北道マップで首
すじをあおいだ。特に見知った気配を感じるでもなく、腰をあげた会社員コンビとすれ違
う。
と、空の方へ張られた"気"の糸に、何かがひっかかった。息を呑む間もなく、頭上でば
さっと乱れた羽音が起こった。
身構えた彼の肩をかすめるように、黒い鳥が空を滑り、宙でもがくような動きを見せた。
そのまま、ふっと落ちかけたカラスを受け止めた手がある。
夏のなごりのバラを描いている、と見ていたショートカットの小柄な女性だった。
(小さな手だ)
最初に千秋が思ったことは、それだった。
ぱさり、と鈍く動く黒い翼が、その手を隠す。淡い緑のサマーセーターを中に、ジーン
ズの上下を着たその女性と比べると、カラスという鳥の思わぬ巨大さがよくわかる。
女の口が小さく動いて、言葉を紡ぐ。かすかに手のあるあたりで、澄んだ翡翠色が泳い
だ。千秋が、ぐっと目に力をこめてそれを見据えた時、突然カラスが生気を取り戻した。
あわてたように、白い小さな手から飛び立つ。彼女はそれを見上げ、ふうわりと微笑んだ。
それから、その笑顔のまま、彼を見やった。
千秋はしばしの沈黙のあと、唇で笑みを返した。
「猪飼――」
懐かしい笑顔だった。