長月の翡翠
3・
この女性は二十代半ばを過ぎた頃、だろうか。白い卵形の顔の中で、つぶらな瞳が細く
なる。どことなく雛人形を連想させた。
近づいた千秋に、ふい、と握った右手が差し出される。
「?」
とまどった彼の鼻先で、小さな手がいっぱいに開き、半透明の青緑の小石が現れる。
「目を回しているだけです。一日もすれば解けるでしょう」
霊を封じたそれを、ぽんと林の方に放り投げて、あっさり言う彼女には、まったく気負
った風がない。
「カラスに憑く・・・というと、甲のどなたかでしょうか?」
とたんに、馴染みの武田の換生者の顔が脳裏に浮かんで、千秋は舌打ちした。
「投げといていいのか?」
いま
言外で始末は?と聞く彼に、猪飼の今生の姿が笑いかける。
「消してしまえば、『どこで』『なぜ』が、生じます。でも憑いたつもりの身体に弾かれて
空白ができるのは、よくあることです」
千秋は彼女を見つめた。
「<力>を貸したのか」
猪飼のもつ<力>。増幅力。その力で、カラスに自ら霊を追い出させた。
(しかし――)
千秋がふとよぎった疑問を形にしようとした時、猪飼は、す、と背を向けた。
「じゃ、行きましょう」
「ど、どこへ!」
「安心してお話できるところへ、ですよ」
ついてきてくださいね、と言い置いて、彼女は10メートルほど先にとめてあるメタリック
ブルーのマーチに消えた。
へっ、という侮りをどこかで感じた千秋だったが、レパードのシートに収まると同時に目
を剥いた。
「な・・・んだよっ!! あーの非常識なかっとびはよおっ!!」
元気をもてあました子犬の勢いで飛び出したマーチを、あわてて追う。
「エンジン替えてんのか、あの軽いクルマで・・・?」
マーチは更に遠ざかる。すいすいと車線をサーフィンしていくさまに、千秋はだらりと口
をあけた。
「あめんぼかよぉ・・・」
とんでもねぇ奴だ、いつからあんなに・・・とつぶやきかけて、千秋は気付いた。彼の覚え
ている猪飼は――そう、あの大震災から見守った彼は、さまざまな人々の死までの短い時
・ ・ ・ ・
を縫い合わせるような日々を送っていた。車など操れる体力と機会を持つ者になることな
どないまま――夜叉衆は、彼を見失ったのだった。
女性の姿とは意外だったが、今の猪飼には健やかな身体があるようだ。だが――どこへ
連れていこうというのだろう。
輝く青い車は、佐野の市街地へと進路を取っていた。
市の中心街へ入る少し手前で、マーチは左手の丘を登る道へと折れた。程なくゆるく回
りこむように、古びた印象の総合病院の正面へ出た。そのまま奥の駐車場へ入る。
千秋がレパードにロックをかけ目をあげると、ジーンズ姿の女性は、正面の建物の後方
に控えた別棟へと足を向けている。
あまりあわてて距離を詰めず、千秋は周囲をさぐった。かなり注意してはじめて気付く、
淡い"気"の結界に触れた。『別館受付』の窓口の警備員が、まったく自分に反応しないこと
に、暗示が施されていると見てとった。そのまま入っていくと、正面のエレベーターで猪飼
が振り向き、あの小さな手で差し招いた。
四階の角部屋。棟の中で占める面積から、特別室と察せられる。患者名は空欄だ。
猪飼はそっとドアを開くと、どうぞ、と千秋を促した。
広い部屋のやや窓よりに、一台だけ病院らしい白いベッド。点滴の容器がバーにかかっ
ており、その管の先は、ベッドに横たわる男の左腕につながっている。
深い眠りの中に在るらしいその男は、三十になるか、というところか。浅黒い肌に濃い
眉、スポーツマン風に短く刈り込んでいたらしい頭には包帯が巻かれ、頬や顎にもガーゼ
があてられている。
南方系の整った顔立ちには、見覚えがない。
だが、いぶかしげに彼を見つめていた千秋の表情が、次第に驚きへと変じる。
顔に覚えはない。しかし、その身体全体から波のように近く寄せてきた"気"には、思
い当たるものがある。
(まさか・・・!)
「ええ」
千秋の内なる驚きの声に、猪飼が応えた。
「色部勝長殿ですよ」