長月の翡翠
4・
「コーヒーは?」
「あ?」
「ブラックですか?」
廊下のソファに腰を沈めた千秋は、ちらりと目だけで猪飼を追った。自動販売機の前で
こちらを見ている相手は、拍子抜けしそうなほど普通の女性に見える。
「砂糖ミルク増量」
声に剣呑な空気をのせたつもりだったが、相手は、はいはいと答えただけだった。
その彼女の横顔の向こう、突き当たりの窓から傾きかけた陽が斜めに差し込む。千秋の
座る合成皮革のソファがぬるんだ匂いをのぼらせる中、彼女は彼の前に立ち、紙コップの
一方を差し出した。
「…で?」
ゆっくりと一口すすって、千秋は彼女を見上げた。
「聞かせてもらおうか?」
彼女は軽く肩をすくめて、彼の正面の壁に背をあずけ、これも一口コーヒーを含んだ。
いまのな みむろまゆみ
「現名は、御室真弓といいます」
ふう、と目をみはり、舌をちらりと出したのを見ていて、千秋は一瞬、気が抜けた。
・ ・
「こうなったのは、二ヶ月前。その前は彼女の母をやってました」
千秋の顎が、がくりとさがる。
「その前は、しばらく短いのが続いてて…。あ、全部お話してもいいですけど、時間が―
―――」
「ああ、どうもそうみたいだな」
大きく、ずずっとコーヒーをすすりあげて千秋は唸った。
「聞きてぇのは山ほど…じゃねぇ、山々だが、とりあえずここの話だ。色部のとっつあん
のことからな」
二週間前のことだった。御室真弓は、この病院に検診に来ていた(「なぜか、は後で」と
彼女は付け加えた)。
彼女は、入り口のロビーでうとうとしかけていた。急に騒がしくなった、と首をめぐら
せると、次々に緊急車両が前庭にあふれた。高速で観光バスと大型ダンプカーの接触事故
が起き、どちらの車も横転した。止まりきれなかった後続車がそこへ何台も突っ込み、あ
る車は反対車線へと弾かれ、また新たな犠牲を呑み込んだ。一瞬にして、沢山の人々を巻
き込んだ大惨事になってしまったのだ。
たちまちにして、戦場になった病院の一隅で、彼女はふと見知った"気"に触れた。消防
士に抱えられて通り過ぎた幼児。その内から発するもの。
彼は、死にかけていた。
どさくさにまぎれ、入り込んだ処置室で、彼女が彼の魂に触れるとわずかに反応が返っ
たが、幼い子供の身体は激しく損傷していた。真弓が自分の<力>で援護をしても、持ち
こたえることは出来そうになかった。そのとき、彼女はすぐ近くで旅立とうとする別の魂
の気配を感じた。長い間、人の死と死の間を渡り歩いた猪飼にはよく分かる。肉体を離れ
ようとする魂の嘆きの声―― 一人の青年が逝こうとしている。猪飼は、冷徹に彼の身体
の状況を分析した。その身体が死にゆこうとする原因は、怪我より出血による外傷性のシ
ョックにあった。強い魂なら肉体に留まり、これを乗り切れるかもしれない。
猪飼は決断した。
言葉をとぎらせた真弓の面差しは、それまでとは異なる――確かに長い時の修羅を経て
きた者であることを明らかにしていた。
何をしたかを彼女は語らず、千秋もまた訊かなかった。
「換生は成功しました」
彼女の声は静かだった。
色部の魂は、青年の身体に根をおろした。けれど危ういところで無理をしたせいだろう。
疲れは深く、昏々と眠り続けている。
「身内としての立場を確保して、ここで看護できるよう整えました」
そして彼を守るため、静かな結界を張った彼女の指先に、九郷が触れたのだった。
萩の事件以降、千秋は何名かの軒猿への指令の中で、色部を探し出すことを最優先に引
き上げていたのだ。九郷もその一人であり、事故の折、あとわずかのところまで近づいて
いたのだった。真弓は彼と接触し、千秋へのコンタクトを図ったのだ。
「九郷が催眠暗示の能力の持ち主だったことが、幸いしました」
真弓はコーヒーを一気にあけて、つづけた。
「自己暗示で封をし、あなたに伝えてまた自分を封じる。そういう運び方をしてくれた訳
です」
「俺に…ってことは、もう知ってるってこったな」
景虎のこと、と千秋が顎で示すと、真弓は目を伏せてうなずいた。
「…直江殿のことも」
千秋はほう、と溜息をついて立ち上がると、つぶした自分の紙コップと真弓のそれをゴ
ミ箱へ投げた。
ワケ
「…ま、そういう理由だったか」
真弓が問うように目を上げる。千秋はもうひとつ溜息をついた。
「『どーにもなんなくなったら呼ぶ』って言ってたよな。それかと思ってよ」
おや、と彼女は首をかしげた。小さく笑う。
「『何かをつかめたら』とも言いました」
千秋は眉を寄せて、天井を仰いだ。それから、声を改めてまっすぐに問うた。
「――どうしてた?」
真弓は、突き当たりの窓に目を向けた。
「物語の最後を収集していくみたい、と言うと、詩的すぎですか? 短い時は数秒、長くて
・ ・
数週間。だんだん奇妙な狎れがでて、それぞれの物語を整理して意識のどこかに積んでお
・ ・
けるようになって…。この…これの母、は――」
彼女は自分の左肩をぽんと叩いた。
・ ・
「久しぶりにひとになったという気持ちでした。一ヶ月でしたが」
あまりに淡々とした物言いに、千秋も一瞬、その話の"凄さ"を忘れた。
「なんで、おっかさんから娘になっちまったんだ?」
「これの母、『杏子』は、誇り高くて、強くて、情が深くて――怖い女でしたよ」
不思議な語り口だった。他人を語るのでもなく、自らを語るものでもなく。語っている
対象と、語っている者との間に境目のない――もやを手の上にとどめるような曖昧さ。
おそ
「歌人としての才と自負。幼さを残したような若い男との晩い恋で得た一人娘を愛し、憎
み、支配してきた。
娘は母を恐れ、慕い、反発し、崇拝して――。
一度、手術中に死んだ母が、何か別の者になったことを感じ取りながら、それに確信は
持てず、突き放しもできず、見当違いの自責に陥って、自分を見失って――」
…なんか、どっかで聞いたような話だぞ、と千秋は独りごちた。さらさらと水が流れる
ように、優しい声はからみあう愛憎を描き出してゆく。
・
「母が再び死に近づいた時、ついに糸は切れて」
真弓は、す、と右手を上げた。突き当たりの窓を示す。
・ ・
「彼女は、その窓から飛び降りたんです」
千秋は、まじまじとその指先を見つめた。
・
「私は、それを床で感じ取っていて、やむを得ず人工心臓をぶっとばして」
千秋は額に手をあてた。
「助けようとしたんです。落下角度を変えて、木の枝にひっかかるようにして。でも最初
・
の打撲の衝撃で真弓の魂は離れてしまい、私が吸い込まれてしまったんです」
それでここへ『後日の検診』に来ていたんですよ、と彼女は付け加えた。
「……よくわかった」
千秋は前髪をかきあげた。
「ハードな話だ」
「そうですか?」
さらりと聞き返してくる真弓に、千秋はもう一度溜息をついてみせた。
緊張感のわいてこない奴だ。
確かに、こいつは猪飼だ。さらりさらりと話す相手に、またうっかり乗せられてしまっ
た。
千秋は小さく苦笑した。
――助けようとしたんです。
どんなに心を痛めても、そのことをごく当たり前の日常のように話してしまう。――そ
れにごまかされては、いけないのだ。
「そういや…、さっきの話だ。"何か"って見つかったのか?」
真弓は真顔になった。だが、すぐに柔らかい笑みになる。彼女は、ふい、と顎を上げて、
先ほどまで千秋の座っていたソファに腰を下ろし、彼を見上げた。
「そうですねえ…。強いて言うなら『何者でもあり得た』かな」
位置の低くなった太陽からの強い光が、二人に届く。
「そしてまた『何者でもない』自分、ってとこですか」
「禅問答かよ」
「哲学かよ、と言われなくてよかった」
あ?と口をすぼめた千秋に、彼女は肩をすくめてみせた。
「『人類最大のカンチガイとゴーマン』って、定義してたじゃないですか、あの学問の概念
がこの国に入ってきた時」
「うーん、名言だな。忘れてたけどよ」
・ ・
身体にしみついていたこりのようなものが、少しずつ剥がれていく、と千秋は感じた。
ああ、これは猪飼だ、とまた胸の中でつぶやく。
身体と心の芯の部分が、無理なく熱を高めるような感じ。
壁から背を離して、千秋は真弓に目を注いだ。
「<力>…少し変わったか?」
「お見通し、ですね。もともと真弓は卓越した能力者だったんです。ただ、ずっと精神的
プレッシャーから来る抑制が働いていたので、めぐりを調整するのが大変でした」
あのS・Aでのこと、と千秋は思い返す。"気"の揺れを感じなかったのに、カラスに送
ったということは、細く細くかつ素早く絞り込んだということだ。
以前の猪飼の増幅力とは、ゆるやかに包み込んでから作用する形を取っていて、基本的
には、本人と対象の接触が必要だった。明らかに<力>が増した。
それでいて、猪飼自身の気配は水のように穏やかに、周囲に溶け込んでいた。本人がそ
う望まなければ、気取られずにすむほど。
「…このまま、おとなしくしてもらってるのが、得策みたいだな」
千秋の言葉に、将としての気迫を感じ取って、真弓はこくりとうなずいた。
「とりあえず、色部のとっつあんが回復するまでは。どこの怨将にも気付かれてないなら、
この状態を維持するのが一番だ。
――景虎は、今ちょいとな…」
ほろ苦いつぶやきに、真弓はもう一度うなずく。
「九郷を貸そう」
「ありがとうございます」
立ち上がった真弓につられて、千秋はもう一度病室へ入った。傾いた夕の陽射しに満ち
た室内は、静かで平和だ。
「何年ぶりかな、色部のとっつあん」
穏やかで安定した青年の眠りの中に、力強くゆるぎのない魂の脈動を感じ取る。
「もうちょいと休んでてほしかったんだけどよ。なんしろ、直江が―――」
不意に千秋は言葉をとぎらせた。そのまま踵を返して、ドアへ向かう。
真弓は追わなかった。
「…頼むわ、猪飼」
くぐもった早口を残し、彼は廊下へ消えた。
足音が完全に遠のくのを待ってから、真弓は窓辺に近づき、駐車場を見下ろした。視界
に入ってきた青年の背中。その上に重い痛みを乗せて、千秋は車へと歩いていく。
――老いて見えた。
レパードが出ていくのを見送って、真弓は空を見上げた。
燃え上がる晩夏の空。うねる朱金の雲の群れ――。
空は変わらない。
本当は一日一日、ひとつとして同じ彩りの空ではないのだけれど…。
彼女はベッドを振り返った。点滴の残量を確かめ、椅子の上の洗濯物に手を伸ばそうと
した時、何かが心のどこかをはじいた。はっとして手のひらを見ると、淡い翡翠色の光が
指に戯れるようにたちのぼった。
真弓は呼ばれるように病室を出た。
夕陽を取り込む右手突き当たりの窓―――二ヶ月前、モップの柄でガラスを叩き割って、
本当の御室真弓が飛び降りた窓を見やった。
夏の名残りの強い光のなかに。そのただ中に――白いゆらぎ。ゆらめくもや、いや炎の
ような――。
その中心に、次第に形を成していくものが。
人影。白い―――ひとと馬と。
真弓はゆっくりと目を凝らす。
唇をきりりと結び、内側のざわめきを封じ込む。
「貴方は――――」
了('99・9・18)
いいわけ=あとがき
「なんなのだ、これはあ」ですね。動きがないのう。話してるだけ。
おりじなる人はでしゃばるし、そうでない方もいいようにされてるし。
このあと、私の妄想は本編へと無謀な乱入をいたします。
書きたいな、と思ったことのために"家"を建てようと考えたら、敷地の造成、
その前の土地の開墾までせにゃならんという…。
お付き合いくだされば、嬉しいです。