早月の勾玉
1 生まれた場所
四月の終わりに松本に戻った高耶は、美弥を引き取って彼を捜させていた星加の大伯母
の家に赴いた。譲の家にほど近いその家で、彼もそのまま起居することになった。
書家として長く立ってきた大伯母、幸子は小柄ながらしゃんと背筋の伸びた老婦人であ
ったが、高耶を迎えた表情は柔らかかった。厳格な"戦前派"だった夫を看取って、どこか
枷がはずれたのかもしれない。美弥は再会の時こそ手放しで泣きじゃくっていたが、落ち
着いてくると父の倒れた状況と病状を的確に説明した。
仕事先で倒れた父は救急病院に運ばれ処置を受けたが、意識は戻らないままだった。
高耶の戻ったその日、仙台から二人の母、佐和子も星加家を訪い、久しぶりにかつての
仰木家の家族が松本にそろった。しかし、それは時は遡ることはない、二度とかつての"家
族"が戻ることはないとそれぞれに知らしめたのだった。
城北高校の高耶の学籍は、その年の三月末で抹消されていた。連絡が取れないままだっ
たために、父も学校側の説得を容れたのだった。大検を受けてはどうか、と言う大伯母た
ちの意見を高耶はさらりと受け入れた。心配そうに自分を見やる美弥に、千秋の言葉が重
なったからだ。
――松本の仰木高耶、でこの先を生きるなら――
――妹が少しでも生きやすくなるように――
(もう使命という言い訳がなくなった以上は…)
言い訳。自分の選んだ言葉が胸を突いた。
戻ってほどなく、高耶の身体は以前の体力を取り戻したので、彼は加山の紹介で父のい
る病院に近いコンビニの深夜のバイトに入った。当面の生活はまかせなさいと言ってくれ
た大伯母や母の真摯さは容れたものの、自分と美弥の小遣い分ぐらいは作りたかったし―
―何よりも何かで動いていたかった。
毎日の夕刻、面会終了までの最後の一時間を高耶は病院で過した。集中治療室で睡り続
ける父に直接会うことはできなかったが、廊下のベンチで独り床を見つめていた。
父が心配――というのではない。ポーズか?と哂われれば、素直にうなずいたかもしれ
ない。ただ――独りの時間を持つために行くのだとわかっていた。自分はただ"待ってい
る"のだと自嘲する。あんな父でも慕い続けようとする美弥の純真さは、すでに奇跡だ。
長く続いた生の記憶が、今は高耶の中に、今生の父という弱い一人の男への憐れみを生ん
でいる。そのことで、かろうじて彼は醒められる。保護されるべき雛鳥の頃に、実父から
加えられた理不尽な暴力に絶たれた父子の絆は、どうにもつなぎようがなかった。美弥と
わずかな周囲、そして譲に支えられて何とか立っていたものの、強がりの下で不安と孤独
が高耶の身の内を食い荒していた――あの頃。
強くあらねば。誰をも護れるように強く。独りでも立てるように強く。
なのに――惹きつけられた。
――あなたを護る。
冴えたまなざしと強く優しい腕。
心に残った、風の中で名を告げた男の誇らしげで――哀しげな声音。
――私の名は…
独りになりたいと選んだ場所で、高耶が思うのはただその男のことだった。