早月の勾玉
3 彼の場所
その日、色部の車が道をそれたのは。
折角、宇都宮を通るなら、という軽い気持ちだったのだ。
直江がこの地へ胎児換生して、橘義明として生まれたのが三十一年前。その時から、色
部にとっても特別な土地だった。郊外にある古くからの聖域に建つ光厳寺に住まう人々。
橘家の家族は傷ついた直江の心を優しく包み、この世界に留めてくれた。
右手の昔ながらの石塀に沿って広い敷地をぐるりと廻り、壮麗な山門の見えたところで
車を路肩に寄せて止める。色部は開いた窓から、門の奥にちらりとのぞく今生の直江の生
家を見やった。ここで初めて出会った時の幼い少年の姿、深い絶望からわずかに現世に歩
み寄ってきたかに見えた十代の頃の面影が一気に甦って、色部に溜息をつかせた。
よく晴れた昼下がりだった。と、車の後方からやってきて門の前に止まった自転車が、
その思い出の中に割り入った。自転車から降り立って、まっすぐこちらを見た若い顔を目
にして色部は驚愕した。すっきり整った顔立ちと、わずかに淡い色調の髪と瞳。少年の日
の橘義明にそっくりな――。
だが、と喉からもれかかった声を無理に押し詰め、色部は唇を閉ざした。
りりしげに見えても頬と顎の線は、やはり違う。自転車に両手を置いたまま、制服の少
女はじっと色部を見つめている。長身ですらりとした立ち姿を、紺のダブルのブレザース
ーツに包んだ彼女は、大人びて見えるが、高耶、いや話にだけは聞いている彼の妹と同じ
ぐらいの年だろう。短くした髪に縁取られた顔を、一瞬かつての直江と錯覚させたのは、
少女の顔に、どこか物思わしげな憂いが漂っているからだ。輝くような若さに似つかわし
くない悲しみ――のようなもの。
不自然なほど長く、少女と見つめ合ってしまったことに気付いて、色部がはっとした時、
開いた門の方から男の声がした。
「まち?」
門から出てきた淡いブルーのワイシャツ姿の男に、色部はうっと詰まった。年恰好とそ
の容貌。直江の今生の長兄、照弘に違いない。
少女一人なら、暗示をかけるなりして事は済んだだろうが、こうなると、ただ逃げ出す
訳にはいかなくなってしまった。少女の方から不審げにこちらへ向けられた照弘の視線を
受け止め、色部は穏やかに会釈して車を降りた。
「はじめまして。佐々木と申します。橘義明さんのお宅はこちらですね」
"伯父である佐々木医師のところで義明君と知己を得ました。昔から親の仕事の都合に
合わせて、各地を転々としていましたので、時折の帰国時に会えるかどうかでしたが。今
はホスピスについて少し物を書いています。先日、伯父の遺品から出てきた義明君からの
心のこもった御手紙を拝読しまして、個人として、または僧侶としての彼から話を聞きた
いと思ったんです。
たまたま福島の方に所用がありましたので、ふらりと寄らせていただいたんですが"
…よくもまあ、さらさらと、と自らの舌先三寸に呆れながらも、色部は信念ある仕事を
している青年、の演技を橘家の座敷で披露した。
「…あ、私の長女のまち、真を知る、と書きます。高校生で…」
と、茶を持って入ってきた先ほどの少女を示した照弘は、沈んだ表情を見せた。
「義明は不在です。…音信が途絶えて二年以上になります」
驚きを装ってみせるのは辛かったが、今はしかたないと色部は気を引き締めた。
「広島で起きた災害の時、車が向こうで見つかって――そのままです」
何かご存知では?と問いかける照弘に、色部は戸惑いの演技で首を振った。
母親は体調を崩しがちになっていて、今日も嫁二人に付き添われ、病院に行っている、
と照弘は静かに言った。父親もその片腕である上の弟、義弘も平静を装いながら、お勤め
に出ているので、今日は自分が会社への出を遅らせ、中間試験中で早帰りの真知と交代の
予定で留守居をしていたのだ、とも。
「では、そろそろ失礼いたします。何も知らなかったとはいえ、突然お邪魔して申し訳あ
りませんでした」
辞去を口にした色部を、直江の姪が寂しげに見つめた。色部の今の姿は直江と同じ年頃
だ。そんな来訪者が叔父の名を口にしたことが、彼女の中にもある心痛を揺らしたようだ
った。直江が両親や兄姉、その家族を大切にし、その思いに救われてきたのであろうこと
は、想像するまでもない。ここにはいない家族の分まで、この父子は"いるべき者"――
義明の不在を悲しんでいる。
色部は黙したまま、車を発進させた。丁度やってきた灰色のクラウンとすれ違いながら、
一旦、市街へと入るために、来た道を戻っていった。
奥日光、男体山の知られざる水源地にその山荘はある。
二年前、再生する直江の肉体の揺籃となったのは、もっと奥の源泉そのものだったが、
今は文明の恩恵にあずかれる人界のはしっこ、一応は車の乗り入れができる私道を有した
ところでも充分用が足りた。陽が西へ行くと、山あいの空気は冷たい。公道からそれて少
し下る砂利敷きの私道へと車を導きながら、色部は後部に積んだ生鮮食品がひっくり返り
はしないかと心配した。丈高いが、幹は太くないので押し詰まった感じはしない杉林の間
を抜けて、素朴な木製の門と柵が見えたところで、ふっと見えない"膜"を突き抜けた感触
がする。猪飼の仕掛けだ。普通の人間は、これに触れると柔らかい暗示にとらわれる。
『コノ先ニハ行ケナイ』
昔に比べて、どこへでも鼻を突っ込んでくる車が多くなったことを警戒してのことだっ
た。同時に警報の役目も務める。暗示にかからないほどの者が踏み込めば、彼女に伝わる
からだ。自然の生命力に満ちた土地は、直江を癒すだけではなく猪飼にも気を供給し、"熊
本以前"にも似た仕掛けを維持させてくれた。
色部の気配を認めた結界は、素直に彼を通した。その先に、地面から数段上がる形の高
床式の小さなログハウスが、山肌を背に一軒ぽつんと建っている。燻されたような黒褐色
の丸太でできたそれは、年を経ているが頑丈そうに見えた。正面中央のドアへと続く階段
の脇に、折りたたみのできる白いテーブルとキャンバス張りのディレクターズチェアが二
脚出ている。小鹿色のむくむくしたセーターにブラックジーンズの小柄な猪飼は、椅子に
かけた白いダウンジャケットの男に、ステンレスのマグを手渡しているところだった。二
人は色部のパジェロに向かって手を振った。その少し手前に横付けする形で車を止めた色
部は、わざと渋面を作った。
「こらこら、寒くなるってのに、まだ外遊びか?」
猪飼がくすっと笑った。
「お出迎えのつもりだったんですけどねえ、"とっつあん"?」
「長秀のまねなんて、やめてほしいね」
色部は肩をすくめ、車の後部を開いた。ダンボール箱二つにスーパーの特大袋三つ――
しかもぱんぱん――の食料品の山に、猪飼は、はあ、と溜息をついた。
「冬ごもり前の熊ですかぁ…。とりあえず熱いコーヒーを一杯…」
猪飼は言葉をとぎらせ、案じるように色部を見上げた。
「何かありましたか?」
「…いや」
色部がためらうように、立ち上がった直江に視線を投げた。
その時、猪飼が小さく呻いて額を押さえた。
「どうした!?」
驚く色部の背に、門の向こうから一声の叫びがぶつかり、空気が揺れた。
「誰…かが、<力>の――ある…!」
猪飼が振り払うように首をねじった。
その脇を――。
「直江っ!?」
上着を振り飛ばして走り出した直江を、二人も追う。三人はざくざくと小石を踏み散ら
して、私道を駆け上がる。
と、先頭の直江が荒い息とともに立ちすくんだ。
門の柱にすがる墨染めの衣の男。僧衣だ。ぜいぜいと喉を鳴らし、憔悴しきった様子で
おもて
うなだれていた頭がのろのろと持ち上がり、面が三人に向けられる。猪飼が鋭く息を呑ん
だ。色部は更なる驚きで声もない。少年の日の直江を思い出させた橘真知も比ではない。
合せ鏡を見るように――その男は直江そっくりだった。
あき
「あ…明っ!!」
声さえも。
僧衣の男は直江へと手を伸ばして、がくりと膝をついたが、目は一瞬たりともそらさな
い。
「あき…義明っ!!」
苦しげに歪んだ唇から、再び名を叫ばれて、直江の背がぴくりと揺れた。
「…にい…」
倒れこむように、直江が男の前に膝を折る。
「義弘兄さんっ!!」
「あき…明っ…!!」
嗚咽とともに直江を抱きこむ来訪者を、色部たちはただ気を呑まれて見守るばかりだっ
た。
猪飼の結界にはじかれた男の名は、橘義弘。
直江の今生の次兄だった。
彼の<力>の発現を見たのは、直江も初めてとのことだった。猪飼はまだ先ほどの<力
>の反発のダメージを感じているらしく、こめかみをさすりながらつぶやいた。
「光厳寺という聖域に同化しすぎていて、わからなかったのではありませんか?」
色部もうなずく。古くからの聖域に生まれ育った者には、時々起きることだ。自覚もな
いまま、結界を突破しようとした意志が<力>を帯びて、同じだけの反発で彼に戻ったの
だろう。その衝撃と案じ続けていた弟の姿を見出したショックで、半ば失神状態になった
義弘は、山荘内に運ばれ、入ってすぐのソファに横たえられた。げっそりとやつれた彼の
面差しは、本当に九州から連れ帰った頃の直江に生き写しで、今更ながらに"血のつなが
り"の大きさを感じさせた。辛そうにのぞきこむ弟の手を離さないまま、義弘は半分夢の
中にいるように語った。
「うちの山門が目に入った時から、妙に鼓動が速くなって…。出て行く車とすれ違った時
は、耳の中の血の脈打つ音で何も聞こえないほどでした。義明が御世話になっていた佐々
木さんの縁者の方だと聞いたとたん、身体中が震えて…。ちがう…あの…あの感じは義明
に似ているんだ…って…。いや、ちがう、それもちがう…」
義弘はひきつるような息を吐いて、弟の手を握り直した。
「ちがう…今の今まで何も考えていなかった。ただ――感じた。見失ってはいけない。な
くしたものを見つけたいなら…」
義弘は握った手を額に押しあてた。その下で閉じたまぶたから涙があふれた。
「…兄さん…」
囁くように直江が言った。深くうつむく。
すみません、と小さく聞こえた。