早月の勾玉
4 この先の場所
声もなく立ち尽くす高耶をちらりと見て、千秋はゆっくりよりかかっていた街灯から身
をはがした。
「…で、その顔がそっくりの"下の兄ちゃん"と、宇都宮の家に帰ったわけか、直江は」
猪飼がうなずいた。
「色部殿が送って行かれました」
千秋が、がりがりと頭をかくと、街灯の光に細いしなやかな髪がふわふわと踊る。
「ま、な。聞いてみれば、いかにもだよな。あいつは家族大事な男だから、家族の方もあ
いつが大事なんだ。親、兄弟、姪っ子たち…。突然いなくなったあいつを心配してなかっ
たはず、ねえやな」
千秋の言葉が高耶の胸にゆっくりと沈んでいく。
「いんじゃねーの? この先、を思えばな」
この先、と高耶は口の中でつぶやいた。
この先、この先。
――松本の仰木高耶、でこの先を生きていくなら。
突然、橘家の人々から奪い取られた義明…。家族を愛し、優しく誠実な青年だった彼を
想って、どれだけ苦しみ悲しんだことだろう。ましてや――。
傷つき疲れ果て、苦しんで苦しみぬいて――。
・ ・ ・
(…彼ハ死ンダノダ)
身体の各部分が、それぞればらばらに振幅を変えて震えだす予兆に、高耶が身を強張ら
せた。と、同時に右肩をぎゅっと掴まれる。はっと目を見開くと、千秋が厳しい顔で見つ
めている。が、何も言わずに手を引いた。
「…ま、山を降りたんだから、連絡はこちらからも取れるようになるってこったな」
高耶が身体の緊張を解くのを促すように、千秋の声はのんびりとしたリズムになった。
「このケータイ盛りの御時世に、それが届かない山猿の里にこもってたんだから大変だっ
たよな」
千秋が笑いながら、猪飼に水を向ける。彼女もようやくあの落ち着いた笑みを浮かべた。
「よろしければ、私も一旦、佐野に戻ろうと思います」
そちらに今の家がありますので、と猪飼は胸ポケットからメモを取り出し、さらさらと
書き付けて高耶に渡した。街灯の光で見ると、今生の彼女の名――御室真弓と佐野市の住
所、電話番号が携帯と合せて二つ、書き記してあった。
「…わかった」
「色部殿は改めてコンタクトしてこられると思いますが、もうしばらく各地の様子を見て
回られるおつもりのようですよ」
一瞬間を置いて高耶が笑ったので、猪飼は首をかしげた。
「なんでしょう?」
「いや…」
高耶は彼女と目をあわせると、もう一度微笑んだ。
「…カタカナ単語を口にするお前に、会える日が来る、って言うか、会ってる、ってさ」
ああ、と唇でつぶやいて、猪飼も笑みを返してきた。
「そうですね…。景虎様」
たおやかで芯の通った、という印象の女性の形であることが、あまりにも自然で、初生
の頃の猪飼和道の姿はなお遠い。養子の身として越後に赴いた景虎の案内役として、短い
間、関わった彼は、実城の草木に通じ、様々な学問に明るい穏やかな青年だったという淡
い記憶だった。それだけに長秀のあと、しばらく時を経てから彼が夜叉衆に加えられたこ
とは意外だったが、それなりに個性の強い面々の中で、彼はいつも控えめに黙々と働いた。
あんなのがなぜ成仏できなかったのかわかんねえ、とよく長秀は言ったものだ。――関東
・ ・
大震災の悲惨な体験が元で、換生するための<力>が制御を失った時、彼は初めてそれを
口にした。
――ただ見ていたかったからなのです。季節の移ろい、水の流れ、変わる風…。それが生
への未練だったというなら…そうかもしれませんが。
・
傷ついた老婆の姿で微笑んだ和道の記憶が、今の御室真弓という女性に重なった。しかし、
彼女の白い小さな手がメモとペンを胸元にしまうのを見て、高耶の記憶は痛みを帯びた断片
を引き出した。――白い寝着の広い肩に乗せられていたその手…。自分が同じ部屋にさえ居
られないと言い渡された時の、苦しみの象徴のように刻まれてしまった白いきれいな手。
「お父様のこと、どうぞお大事に」
・
優しい声とともに、彼に触れていたのだろうか。響き、のあとに、彼女の言葉の意味を
・ ・ ・ ・ ・ ・
やっと聞いた高耶は、喉の奥の苦みを呑みこんだ。
「病院へいらしてらっしゃることも多いでしょうから、当面は安田殿の方へ御連絡いたしま
す」
「ああ…」
不意に集中治療室にいる父、という現実に高耶は連れ戻された。隣で千秋が、んー、と伸
びをした。
「親父さんは?」
高耶は目を伏せることで答えた。
「そっか…。美弥ちゃん、気遣ってやれや?」
にこにこと全開の笑顔になった猪飼――真弓に、千秋はんん?と目を流した。
「あに?」
「いえ、相変わらず女性にお優しいなぁと」
「はっきり言えよ、"女好き"って!」
千秋は、むーん、と下唇を突き出した。
「女、って…、千秋、てめ!!」
真っ赤になって、高耶が千秋に詰め寄る。
「美弥に、何か下心あんのかっ!!」
「馬鹿言え〜!! 子羊ちゃんは優しく護ってあげるのが、真の"女好き"だ」
もっとも、と千秋の眼鏡が、街灯の光を反射する。
「美弥ちゃんも、もう今年で十七歳。そろそろ子羊の域は過ぎかけてはいる。うん、それ
もまた真実」
このっ、と高耶が千秋のシャツの胸倉を掴んだところで、はいはい、と真弓が手を叩く。
「まあ、仲良しこよしは、そのぐらいになさって。私もそろそろ車を出さないと。『タイ
ぶん
マーズ』の駐車場は、一分過ぎても三十分分の超過料金を取るもので」
コイン式駐車場チェーンの名を出しつつ腕時計を見る真弓は、途方もなく現実的で、二
人の気持ちを一気に静めた。
「…市営にいれればよかったろ」
高耶の力ない反論に、
「今日は土曜日ですよ?」
柔かい一言で、松本が有名な観光地であることを、彼女は思い出させた。
「なに、今から戻んのか?」
「この時間なら、道も空いているので」
千秋は、彼女の車がよく"かっとぶ"マーチだったことを思い出して、ちらりと納得し
た。ぶっとばす気にちがいない。
では、また、と丁寧に頭を下げた真弓と、駐車場まで送っていくという千秋に別れを
告げて、高耶も公園を出た。
(また、か…)
常にそう言い交して、生を続けてきた夜叉衆も、もうその咎を忘れるための言い訳を
持たない。あるのは、ただ己の罪を噛みしめるための今生だけ――。
病院の建物の方を振り返って、高耶は唇を引き結んだ。
橘家の人々は失われていた義明を取り戻し、きっと喜びに包まれている。優しくて誠
実な…、でもきっと瞳の奥に、常人にはうかがいしれない苦しみと悲しみを宿していた
橘義明。その絶望は時折表に躍り出て、彼を喰らおうとしたが、家族がそれから彼を護
った。彼が一番苦しかった時に…。それに応えて家族を深く思いやったであろう彼は、
決して義明の偽者なんかじゃない。
――あなただったからこそ、みんなが得た幸福をもっと思ってくれませんか。
いつか彼のくれた言葉。彼は自分自身に言うべきだ。いつもそうだった。惜しみなく
注いでくれる言葉と想いで、彼は癒し続けてくれた。
「おまえは…自分にそう言ってやれよ…」
誕生日なんて、と我が身を呪うようにつぶやいた高耶にくれた言葉を。
我知らず――高耶は左胸のポケットを押さえた。
小さな丸い珠の感触が、風の吹き抜ける心の洞をわずかにふさいだ。