卯月の菫石
1 卯月の頃
騒がしい春だった。
天変地異や自然災害。それから、謎の記憶障害に襲われた人々。
政治家の失脚や引退、大手企業の傾き、倒産。
毎日毎日、何かが新聞とテレビの画面をにぎわせたが――それでも春は来るのだった。
・ ・
熊本もまだ何が起きたのやら、と溜息をついていたが――それでも春は来る。
日ごと暖かくなる四月のある日、白水村のはずれにある古い日本家屋の前に一台の青の
レガシィが止まり、助手席から一人の少年が降りた。
黒い学生服を着た中背の若者で、とりたてて容姿が美しいという感じではないのに、濃
い眉の下のくっきりした一重の目には力があり、どこか悠然としたその身のこなしと相ま
って不思議な華がある。
寸瞬遅れて後部座席からは、淡いグレイのジャージの上下を着た少年が、杖にすがって
降り立ったが、昨日の夜から朝にかけて降った雨のぬかるみに足をとられそうになる。学
生服の少年は、その時は彼に手を貸したが、あとはことさら気遣う様子も見せずに古びた
長屋門に向かう。杖をついた少年がそれに追いついたところで、運転者の青年が声をかけ
る。
「じゃあ、明日の朝、迎えに来ますね」
「あ、すいません」
同行者よりは少し幼く見えるようでいて、それでも彼なりに年齢より老成した物腰のジ
ャージ姿の少年の方が軽く頭をさげたが、学生服の少年は、おう、とうなずいただけだっ
た。
戻っていく車をなんとなく見送って、二人は門をくぐったが、杖をつく少年の方が立ち
止まる。
「どうした、哲哉」
学生服の少年が振り返る。
「いや…」
哲哉――三池哲哉は、うつむきがちに首を振ったが、あきらめたように深い息をついた。
「わりい…根津。なんか…」
見ると耳まで赤い。
「いや、なんか、ほんとに仰木…」
「何を照れてる」
根津――実は加藤清正の魂を内に持つ少年は、倣岸な仕草で腕を組んだが、その目は笑
っている。
「てっ!! てれててっ…いや、てれてれる、えっと…」
哲哉の舌のもつれた抗弁に、清正は今度こそ声高く笑うと、玄関へと導く小道から左手
の庭の方へずんずんと逸れていく。
「根津!? おい、庭からなんて…!」
ぎこちなく追いながら、同じく庭へ入ってしまった哲哉は、はっと息を呑んだ。
母屋の座敷と離れとが面した、古めかしい植栽の庭の中央、裸の枝を午後の晴天にのべ
た大木の元に、彼がいた。
「…仰木!」
その名のとおりに。
白い和服の寝着の上に、紺の濃淡の縞の羽織という姿の仰木高耶は、少年たちの方へ目
をやり軽くうなずいた。
客二人は、給仕に現れた九郷の存在に、どうも落ち着けないらしい。哲哉は、コーカソ
イド系の容姿の彼におたおたしており、清正は、かつてその身体の主であった者を知って
いただけに、居心地が悪そうだ。それを察したというだけでもないだろうが、桜の葉に包
まれた道明寺と熱い緑茶をあけはなした広縁に置いて、九郷は母屋の中に戻っていった。
三人は庭を向いて、並んで広縁に腰掛けた。
「仰木、先生は?」
哲哉の問いに、ん?と戸惑ってから高耶は笑った。
「千秋とねーさんは病院だ。友達が退院するんで迎えに行った」
足はどうだ?と聞き返されて、哲哉は、もうほとんどいい、と答えた。高耶は、一瞬間
をおいて、しっかりと哲哉の方を見ると低い声で言った。
「哲哉、妹のことはすまなかった」
哲哉は目を見開いたが、ゆっくりかぶりを振った。
「謝んないでくれ。あんたに謝られたら、俺、どうしたらいいか、わからん」
しばしの沈黙のあと、哲哉は手を見つめたまま、とつとつとつぶやいた。
「俺、ほかげは偉かったと思う。最後の最後まで、一番大事なことをわかってたと思う」
清正は瞠目し、高耶は痛みをこらえるように、目を伏せた。
「一緒に生まれて…でも、ずっと一緒にはいられなかった。
けど――俺なんかより、ずっとずっと重いもん背負わされて…。
それでも、ほかげは本当に大切なことをわかってて…それを護ったんだ。偉かった。そ
うだろ?」
「そうだな」
清正が大きくうなずいた。
「お前の妹は、自分にできることを全部やりとげた」
高耶は無言で哲哉の肩を叩いた。哲哉は、はっとして左頬をすべった涙をぐいとこぶし
でぬぐった。あわてて道明寺をつまみあげて口に押しこむ。
「うまいな。やっぱ、春は桜、だよな」
「意味が違うぞ」
茶をすすって清正がたしなめる。彼は、先ほど高耶が見上げていた大樹を顎で示した。
「あの桜はどうした? 花は終わったのに芽吹いていないな」
羽織を引き合わせようとしていた高耶の手が止まる。
「…猪飼が樹精を借りたんで、まだ回復してないんだ」
「猪飼…? ああ、あの短髪の女か」
茶を口元に持っていった哲哉が、うっとつまる。
「たん、ぱ、つ?」
「お前は会ってなかったか? 見た目は悪くないが、猫みたいな女だぞ。人あたりはいい
が、つかみどころがなくてな」
およそ外見に似合わない"女の品定め"を口にして、清正は高耶に尋ねた。
「日光へ行ったきりか?」
一息、間を置いて高耶が答える。
「色部と――直江の看病を続けてる」
「…直江か」
清正は正面へ向き直り、目に険を浮かべた。
「傲慢な男だな」
高耶は微かに眉を寄せた。
「善悪に、すぱんと人を切り分ける」
冷たく――だが不思議に嫌悪はこもらない清正の口調に、哲哉は目を丸くするばかりだ
ったが、ふと記憶の扉が開くのを感じて自分の内部をたぐってみる。
(『なおえ』…?)
あの時――あの高耶との、古城高校への道行き。
土気色をした高耶の顔、肩で息をつきながら喘ぐようにその唇からこぼれた…。誰かの
・ ・
名前、と思えたそれは――それではなかったか?
「それも――どんな"時の量"にもゆるがない善悪の基準を知っている、そう言わんばかり
の目をしていた」
空へ目を上げて言い放つ清正とは逆に、高耶は足元に咲くすみれのひとむらを見つめて
いた。陽だまりの縁側の沈黙は、少しも気づまりがなく、穏やかに三人を暖めた。
「霊守、引き受けたそうだな」
不意の高耶の問いに、哲哉はふっと息をついた。
「…それ以外…今、何もないからさ、俺」
小さく肩をすくめる。
「"せいしょこさん"も色々助けてくれるって言うしな」
「必要ならば助言ぐらいする、と言っただけだ」
清正は三人の湯呑みに茶を足した。おそれおおい〜と茶化した哲哉の額を、高耶越しに
ぴんとはじく。思いがけず高耶も笑い、空気はまろやかさを増した。
と、門の方で車が止まる音がした。
先ほどは出遅れた分を取り戻すかのように、九郷が玄関から小道を門へと急ぐ。台所仕
事でもしていたのか、淡い色の髪の美少年が生成りのキャンバス地のエプロンをして、あ
わあわと行くのが何だか笑える。二人の青年が、それに応じつつ入ってくる。
「あ? ああ。晴家は寄るとこがあるってんで、置いてきた」
お土産、とコンビニの袋を九郷に渡した千秋は、ひょいひょいと長くなった髪を縛り直
した。
「…せんせっ!」
哲哉の叫びに、おう、と余裕で手を振る千秋と、それをびっくり、という顔で見つめる
もう一人――。
「譲…!!」
高耶の声に、白いウインドブレーカーを羽織った成田譲がこちらを見る。笑顔がこぼれ
たが、すぐに半べそをかくように歪んだ。
「…高耶!」
母屋の奥の方では、やいやいと少年たちの声がにぎやかだ。
…実際には、少年と言い切ってしまっていいものか、と譲と高耶は苦笑したが、ふとま
た沈黙を分かち合いながら縁側に腰掛けた。黙ったまま、二人は並んで庭と空を眺めてい
る。穏やかな春の気配に包まれた午後は、二ヶ月ほど前にすぎない修羅の日々をぬぐい去
ってしまったかのように思わせる――もっとも、それは自分の方だけだろうか、と譲は宙
へと目をさまよわせ、高耶の横顔をうかがった。
「高耶」
こちらを向いた彼のまなざしに、譲はちょっとどぎまぎした。
「…っと、その…身体、どう?」
一瞬の間があって、高耶がくすっと笑う。え?と目で問うた譲に、笑顔のまま首を振っ
て空を仰ぎ答えた。
「さっき哲哉とも同じような話、したからさ。…もう、ほとんどいい。まだ先週入れた輝
炎石が残ってて――火の力を借りてるけどな」
この辺、とおどけて胸を叩いた高耶の眉のあたりが、ふと曇って憂いが漂った。が、振
り払うように譲の方へ向き直る。お前の方は?と聞き返されて、譲は肩をすくめ苦笑した。
「なんか腕とか脇腹とかふくらはぎとか…ちょこちょこ色々って感じだったけど、みんな
切り傷とか擦り傷とかそんなんだからさ。数が多いから感染症なんかが気になっただけで
――大したことないよ」
そのまま続けようとして譲はためらい、笑みを消してあの真剣なまなざしで高耶を見つ
めた。
「…高耶…。…終わったんだろ? そうだろ?」
高耶も見返す。
「…のようだな」
「もう…お前の役目は――終わったんだろ?そうだろ?」
高耶は、正面の桜へと目を向け、ゆっくりうなずいた。
「じゃ、元に戻れるんだな? 松本…俺たちの街へ戻って、元の生活に戻れるんだろ、高
耶!」
話しているうちに強くなった譲の口調に、しかし高耶は答えない。譲は、声のトーンを
抑えてそっと親友を見やった。
「…そうだろ?」
高耶は目を伏せ、
「そうだな」
と、短く応じた。胸にうずまく不安を見ないようにしながら、譲は頭の後ろで手を組み、
明るく言った。
「元に…あ、あれだといいな。安もんのSFなんかによくあるやつ! ラストは何もかも
事件が起きる前に戻るってやつ。
そう、あの…俺が信玄にとっつかれたりして、面倒起こしちゃう前!」
譲は笑いながら縁側に両手をついて、空を見上げた。
「松本にも何にも起きなくて、あったりまえの高校生しちゃって…。いや、いっそ熱々の
濃〜い青春して――」
譲は高耶へと目を戻し、ふと黙った。
わずかに目を細めて、足元の砌石の傍らに咲くすみれを見つめている高耶は、ひどく無
防備に見えた。
「…直江さんはどうなの、高耶?」
相手の肩が小さく動いた。
「…良くなってるらしい。…色部が、一日おきに通話圏内まで山を降りて連絡してくる」
ケータイって便利なようで不便なようで…と茶化すようにつぶやいて、高耶は軽く笑っ
たが譲はうなずくだけだった。
(身体は隣にあるのに―――)
ほら、また寂しげな目ですみれを見ている、と譲は口の中でつぶやく。
(心はここにはないんだ…高耶)
時が戻れば――。自分があんなことに巻き込まれなければよかった。高耶は自ら封じた
とおり、仰木高耶そのものだけで生きて、何事も起こらず…。
(でも…それじゃあ…)
――彼、にも会わず。
譲にとって、信長から身体の支配権を取り戻し、自ら死を装った時からあとは、夢のよ
うにおぼろだ。
けれど確かに見た。炎の中、高耶を抱きしめ自分を見上げた直江を。本当の直江を。
あの瞳の中に在った激しいもの。彼にしかないもの。高耶がそれを喪うことに耐えられ
ず、自ら狂うしかなかったもの。
(アア…、タカヤノアノヒトダ)
――彼にも会わず。
「譲…、オレ」
え?と我に返った譲は、額に手をあててうつむいた高耶に眉を寄せた。
「無様だったろ…? 二年か…二年間」
まだぴんと来ずに、譲は彼を見つめている。
「逃げて…逃げて二年か。…いや、それだけじゃない。なんで…」
顔を上げ、宙をにらむ高耶の自嘲に歪む唇が痛い。やっと譲にも、高耶が何を言わんと
しているかわかった。
この…二年のことだ。直江の"死"から逃げた日々を。
「それは――しかたなかったんだよ、高耶」
次の言葉を口にするのを、譲はためらった。
(…それだけ大切だったんだ)
親友、なんて言葉も無力になるほど、と心の中で譲は苦い独占欲をかみ殺した。
「景虎ー! 成田ぁ!」
千秋の声に、二人は屋内を振り返った。九郷がしていたのと同じようなキャンバス地の
エプロン姿に、二人はぶっと吹き出した。
「ら…、『らぶらぶ熊本』ぉ!?」
二人が転がって笑いだした原因――胸元のかーわいい"せいしょこさん"のイラストと丸
文字のキャッチコピーをつまんで、千秋は憮然とする。
「昨日、晴家が買ってきたんだ。五枚だぜ!? センス疑うよな」
そういや、と高耶が笑い涙をぬぐった。
「ねーさん、土産もののキーホルダーとか好きだよな」
「コレクターだよな。二人だけで全国走ってた頃なんざ、別行動でどっか行くたび『買っ
といてよ!』って念押しされてたって直江がぼやいてたぜ、ったく」
高耶が目線をそらした。千秋は気付いたようだったが、とんちゃくせずに用向きを口に
した。
「ドーナツ揚がったぞ。肌寒くなってきたから中で食え」
「千秋が作ったの!?」
すっとんきょうな声をあげた譲に、彼はちゃうちゃう、と手を振った。
「俺とコーコーセー二人は手伝いだけ。九郷よ、あいつ、料理とか菓子作りとか上手いの。
一昨日、お前んとこ、持ってったクッキーもやつのお手製」
うっわ〜と驚く譲とともに高耶も立ち上がり、香ばしい匂いの方へと入っていった。