卯月の菫石
2 置いてきたものから
門脇綾子が仮の家までタクシーで戻らなかったのは、白水村の酒屋に寄ったからである。
いや、本当は運転手にちょっと待っててね、と頼んで、途中下車しただけのつもりだった
のが、酒屋のお嫁さんが陣痛の始まりを訴えているところへ飛び込んだために、そうなっ
たのであるが。
配達に出ている若主人に、連絡を取ろうとあたふたする舅夫婦を落ち着かせ、場を仕切
った彼女はてきぱきと乗ってきたタクシーに妊婦と姑を乗せて病院へ送り出した。勢いで
少しばかり店を手伝って、篤い礼の言葉と銘酒一本、紅白のワインのペア一組、珍味各種
を、酒造メーカーのロゴ入りデイパックに詰めたお土産付きで、彼女はそこを後にした。
送ろうか、とも言われたが、まだ夕焼けの明るさも残っていたから、春の散歩を決めこん
でぽくぽくと村はずれの家を目指して、綾子は歩いた。
田畑の外仕事から帰る人たちと会釈を交わし――こういうところは高耶以外の夜叉衆は、
皆、そつがない―― 鮮やかに燃える西の空を見ていると、この世界が不意に愛しくなる、
と綾子は目を細めた。と、その口元がひん曲がる。
「…ったく…!! 会社がよたったぐらいで何さ! おたおたすんじゃないわよぉ!! エリー
トだヤンエグだって連中は結局ひ弱なのよ! 生きてりゃ、もうけもんだわよ!!」
そりゃまあ不運は不運だったわよ、でもま、これは野良犬(絶妙だわ!)にでも噛まれ
・ ・ ・
たとでも思って乗り越えるしかないじゃない、世界はこんなに美しいのよ、あいつもどん
より落ち込んでないでこの夕焼けでも見てカンドーすればいいのに、と際限なく続く愚痴
だか悪態だかをお供に、仮の家に近づいた彼女は、はっと足を止め、敷地のぐるりを囲む
白壁に身を寄せた。
前方に、紺の小型車が道端に寄せて止めてある。門のあたりで、小柄な背広姿の男がそ
っと中をうかがっていた。灰色のスーツを着たその男は、中年のごく普通のサラリーマン
に見えるが、ひっそりと音もなく動く様子はまっとうな訪問者ではないように思われる。
綾子はそっと荷物を下ろして、思念波を家にいるはずの千秋に送った。<力>のレベル
が静まってしまったので以前ほど細かい内容は送れないが、(外へ!)ぐらいの意は伝え
られる。
男は時々左手を口元にやる。何かを手の中に持っている?と綾子が目をすがめた時、家
の方で動きがあったのだろう。男は、はっとしたように一歩あとずさった。そうはさせな
い、と綾子は小型車への退路をふさぐべく駆け寄った。彼女を認め、棒立ちになった男を
目で威圧する。
「あんた、何者!?」
「いや…、私は…ただ…」
うろたえた男が、彼女の剣幕をなだめようと両手を突き出したのがまずかった。詰め寄ろ
うとした綾子の胸を、正面から押さえる形になってしまったのだ。
「あにすんのよぉっ!!」
ぶち切れた綾子のパンチが男の左頬に炸裂するのを、千秋と清正は目の当たりにしてしま
った。
「…夜這いは、かけんほうがよいな」
「おめー、そんな物好きなこと、考えてたんか?」
ま、それはさておき、と三人は伸びてしまった小男を見下ろした。
「実力行使しちまったんだから、もう遅い。このおっさん、中へ運んで何者か調べようぜ」
軽い口調とは裏腹に、千秋の顔つきは険しくなっていった。
男の名は市川浩文。
財布の巧妙な隠しポケットにあった何枚かの名刺には、その名と名古屋に事務所を持つ調
査会社の名が刷られていた。左手に握られたままだったマイクロカセットには、調査対象者
に関わりを持つ者――おそらく成田譲であろう青年の消息から、ここ白水村の屋敷にたどり
着いた、と吹き込まれていた。
千秋、九郷の催眠暗示能力も以前の強さをなくしていたが、彼らは清正と組むことで、市
川から順々に情報を引き出すことに成功した。
訓練か職業意識か、催眠暗示を受けても、市川はやすやすと口を開きはしなかった。だが
心には、二人の誘いかける問いへの答えが浮かぶ。それを清正が読み取るのだ。
離れの――直江が使っていた――部屋で、うつろな目をして座っている男の手首を握った
清正が起伏なく告げた。
「依頼者の名は、星加幸子」
その名に高耶が反応する。
「知ってるの? 景虎」
綾子の問いに譲が答えた。
「高耶の大伯母さんだよ。確か――お父さんの伯母さん」
何でおめえが?と言いたげな千秋の目線へと向き直って、譲は、ん、と声に力を入れた。
「うちの母親の七宝の先生と知り合いで――」
譲はちらっと高耶を見やって、ばつの悪そうな顔をした。
「よく――俺に高耶たちの様子を聞いてきてて…」
「ダンナ…大伯父にオレたちに関わることを止められたんだ」
高耶が腕を組んで低く言った。
「親戚の中じゃ、最後まで親父をかばってくれたけど、お袋が出て行ったあと、また崩れち
まった時に大伯父がキレた。昔かたぎには、あの親父の脆弱が許せなかったんだろうよ」
淡々と言う高耶を、譲は少し不安げに見やった。
「星加のおばさんが、オレを捜せと?」
清正はしばし瞑目していたが、ふっと息を吐き、市川から手を引いた。
「あらかた読めた。その者は、三ヶ月前、連れ合いを看取ってから行動を起こしたらしい。
初めは、地元松本の業者におぬしの消息を追わせたが、はかばかしい答えは得られなかった。
そうこうしているうちに」
清正は高耶と目を合わせた。
「六日前、父御が病で倒れたそうだ。くものまく…とかいう」
「クモ膜下出血!?」
綾子が声をあげた。
「よ…容態は…っ!」
「美弥は?」
綾子の声をさえぎるように、高耶が問うた。清正はうむ、とうなずいた。
「その幸女なる刀自の元に引き取られている。父御は病院で昏睡が続いており、幸女は人捜し
では名の知れているこの男の方へ、依頼先を変えた」
ふうん、と哲哉が息をつく傍らで千秋が、
「…で、一週間足らずでここまでたぐってきた、ってのか」
と、感嘆する。九郷も同意を示した。
「そのお刀自様も御判断がよろしいようで」
「感心してる場合じゃないでしょ!!」
「そうだよ!!」
綾子と譲が同時にいきり立ち、清正が迷惑そうな半眼になり顎を引いた。譲は高耶の肩をつ
かんだ。
「帰ろう、高耶! 今すぐに!」
唇を結んでいる高耶に焦れて、譲は彼の身体をゆすった。
「帰んなきゃ!! お父さん…お父さんと、このままになっちゃ駄目だ!! 美弥ちゃんだって、
どんなにお前のこと待ってるか!」
美弥…と高耶の唇が声なく動いた。正座した膝の上に置かれた手が、ぐっと握られる。
「景虎?」
千秋の声に高耶は顔を上げた。眼鏡の奥の目に、白い面差しで答える。
「明日の色部からの連絡を受けてからにしよう。それからでいい」
「高耶!!」
責めるような声音になった譲に視線を転じて、高耶は苦く微笑った。
「幸子おばさんが預かってくれているなら――半日ぐらいの違いはどうってことない。
…譲、お前、退院したばかりなんだぞ。もう少し自分のこと、考えろよ」
「高…!」
声を荒げかけ、高耶もまだ病後の身なのだということに気付いて、譲は言葉をとぎらせ
た。
「そうだな」
千秋があっさりと受けて、清正に声をかける。
「この市川っておっさんには、あと半日眠ってもらおう。色部のとっつあんと話して、ど
ーすっか決めて、それからお目覚め。それでいく」
「佐伯さんに、朝のうちに来てもらった方がいいわね」
綾子があきらめたように肩をすくめた。
「この前、もう輝炎石はいいでしょう、って言ってたけど、こうなったらもう一度、景虎
の身体に入れてもらってから、ここを離れた方がいいんじゃない?」
一瞬、高耶の目が苦しげに瞬いたのに気付いたのは、譲だけだった。
(高耶…?)
「予備燃料ってか。…ま、松本までの移動や、そのあとを考えるとな」
千秋もうなずく。
「直江の時も、猪飼ととっつあん、二人がかりで気を供給したわけだから、大事は取った
方がいいな」
高耶が、つ、と立ち上がった。
音のない立居振舞で広縁に出た高耶の背後で、障子がぴたりと閉じた。
勢いこんで後を追おうとした譲を、千秋が止めた。それを見やって、哲哉は清正の目を
とらえ、問いかける顔を作ったが、相手は微かに否定の動きを示しただけだった。