卯月の菫石
3 菫の石
――妹がくれました。紫は魔をはらうと。
何時の生の時だったか。
あれは、直江の幼い妹…。
――あにさま、守り石、あにさまがもっててくださいな。
ごぶじで、あにさま、ごぶじで。
母の生命と引き換えに、この世に生まれたけれど、難産の末の子であったためか、病
がちで、娘になるまでは生きられないと。
それでも。
小さな手、すべらかな頬、澄んだ瞳。
――あにさま、あにさま。
子をもうけたことのない直江にとって、それは初めての"父親"に似た気持ちだったろ
う。高齢の父に代わって、不器用に少女を慈しみ甘やかす直江のその瞳。理性を重んじ、
人全体が"高い者"を目指すことを理想とする彼の、一見冷たい印象の奥。胸の内に在る
熱いもの。深く激しい溢れ出る想い。
それが形になってそこに在る。幼い少女を抱き上げる手に。
オレの心に巣食う闇。
・ ・
――それはオレではない。
・ ・
あれはオレ以外の者には注がれてはならない。
少女に何の罪があるだろう。幼い弱い身体で、必死に生きようとする生命に。気遣う兄
に床から微笑みかける少女に。
母の形見として持たされた、守り石の紫水晶――形が似ているからと"菫石"と呼んでい
たそれを、自分より兄に、と手渡した少女。
み
少女には視えていた。現世に重なるもう一つの世界。兄が半分はその世界に在る者
だと。
小さな手で、あるがままの直江を抱きとめている少女。彼の泉に暖かいものを注ぐ少女。
…心が灼ける…。
つとめ
使命ゆえに負傷した直江。見舞ったオレを狙い、襲ってきた怨霊。
オレをかばって、身を投げ出した直江。
(あにさま!!)
離れで床に就いているはずの少女の声を、二人とも聞いた。直江の胸元ではじけた紫の
光に阻まれて、そいつは散った。
…床の中で息絶えていた小さな身体。
直江がそっと抱き上げると、彼の胸元から紫色の粉つぶが、ぱらぱらと落ちた。少女の
思いを得て彼を護った菫の石のむくろだった。
直江は、ゆっくり少女の髪を撫でた。
優しく撫でていた。
少女の名は、澄と言ったが、直江は、すみれ、と呼んでいた。
少女は「愛して欲しい」などとは思わなかっただろう。
息をするように、自然に注がれた思い。
あの子の中にも泉があった。
兄の思いを受けて育まれた泉が。
―――オレにはない。
オレは荒くれてねじけた炎。
奪い取ることしかできず、泉を涸らす。
千秋の言葉が、ぐるぐるまわる。
「お前の中の力が、直江を護る力を蹴散らす」
はまりすぎて声も出ない。
…苦しい。
苦しいんだ、直江。
月の下で見たあの傷こそ、真実だったはずなのに。
今度こそ本当だったのに。
どうして―――こんなに。
「高耶…! 高耶ってば!!」
揺する手の下で低く呻いていた高耶が、ようやく目を開いたので、譲は大きく息をつい
た。夜明け前の薄闇の中、高耶が見上げてくる目線をとらえ、ぎこちなく笑みを作ってみ
せる。
「すっごい苦しそうな声、出すからさ。何事かと思っ…」
高耶の目が自分を認めるのと同時に、ふっと光を失ったので、譲はまた眠ったのかな、
と彼を覗きこんだ。
「あ…、ああ…」
小さくかぶりを振られて、譲は上体を起こした。
「わり…、そうか、起こしちまったか…」
高耶が寝室にしている母屋の座敷に、二人は布団を並べていた。久しぶりに親友二人の
水入らずよね、と笑いながら綾子が敷いてくれたのだった。清正と哲哉は、市川の監視も
兼ねて、千秋とともに離れに床をとっている。
「景虎様?」
襖の向こうで九郷の声がした。
「何かございましたか?」
昼とは印象の違う彼の物言いに、譲は少し驚いたが、高耶は静かに応じた。
「…何でもない。休んでくれ」
短いいらえとともに、気配が離れる。
起き上がった高耶の肩から発汗の湿り気を感じて、譲は身を引いた。
「汗、すごいじゃないか」
間の抜けたセリフだな、と譲は赤面したが、気の利いた言葉が見つからなかった。目が
慣れたせいか、はっきり見えてきた高耶の横顔は白く頑なな空気を漂わせていて、胸の内
がつかめない。
「…なんか、悪い夢でも見た?」
はじかれたように高耶の肩が揺れ、譲と目を合わせる。真摯なそのまなざしを譲が驚き
で受け止めると、ふっとまた視線から力が抜ける。口元が小さく笑った。
「覚えてねえよ」
高耶は、すい、と立ち上がると、雪見障子をからりと開け、広縁に出た。朝の気配がガ
ラスの向こうの庭を柔らかく包んでいる。汗に濡れた身体に、外気の影響を受けた廻り廊
下の空気は冷たい。
「高耶――」
寒いんじゃないか、とかけかけた声を、形にする前に拒まれたように感じて、譲は言葉
を呑みこむ。
白い寝着の背中は硬く、伸ばそうとする手をひるませる。譲は、まだどこかバランスが
食い違っているような動きをする身体を叱咤して立ち上がり、高耶の隣に立った。
築山の手前、裸のままの桜の古木の枝が、白みかけた空を背景に広がっている。その枝
々の先を見ている、と思ったとたん、高耶が目を落とし辛そうに細めた。
庭履きのそろえられた砌石の脇に―――。
(そういえば昨日も…)
ひとむらの野すみれの紫が朝露をはじいてか、きらりと光った。
無言の高耶から、何かしら痛みのようなものを感じ取ってはいても、ただ黙って隣にい
るしかできない。そんな自分に焦れながらも、譲は本当の朝が訪れるまで、ともにそこに
たたずんでいた。