卯月の菫石
4 妹たちへ
『戻られるべきだと思う』
携帯が繋がるや否や、前日の一件を聞かされた色部は、迷うことなく言い切った。
二日に一度の連絡の合間、各地の様子を見るため精力的に飛び回っている彼は、今、仙
台から日光へと戻る途中のとあるパーキング・エリアだと伝えてきた。
『全体が浄められた、のは、やはり確かのようだ。伊達殿の地も見事に鎮まって、浄光の
気配が残っていた。北海道へは、まだ足を伸ばしていないがね』
じゃがいも、とうもろこし、海の幸は魅力だがなあ、とのどかな声でつぶやいた彼に、
少しこわばっていた高耶の様子が和んだ。
『換生者は我々を例とすれば、残っているのだろう。しかし数は稀なはずだ。<力>を使
えるようにしていた"気"自体が静まったから、前ほどの力も持っていない。…長い目で見
れば、まだわからないことも多いが、さしあたって今、あまり心配する必要は無いと考え
るな。
それより親御さんの方が急を要する。松本へ戻られるべきだ。体調もかなり良くなられ
たようだしな』
「ああ、佐伯さんも大丈夫だと言ってくれた。…念のために、もう一つ最後に入れてもら
ったが」
胸を押さえて、高耶は言葉をとぎらせた。携帯を握り直す。
「…直江…の身体の方は?」
『だいぶいい。やっぱり日光の地は合うようだな。一昨日は庭まで出て、小一時間過ごし
たそうだ。小さい泉があって霊威を醸しているから、それに反応してよく回復している。
猪飼と私も樹や土が身体に合うんで、三人で静養しているようなものだな』
高耶は瞳を揺らしたが、
「そうか」
とだけ、つぶやいた。相手の先を制して決断を告げる。
「わかった。一旦松本へ帰ることにする。美弥のことも考えてやらなきゃな。大伯母にも
一度きちんと会ってくる」
ひと息ためらってから、高耶は舌の先まで出掛かった言葉を替えた。
「…とりあえず、この千秋のとは別にプリペイド式の携帯でも手に入れるから、そっちへ
連絡をもらえるようにしよう。九州の後始末は、ねーさんと九郷で見届けてくれると言っ
てるから、千秋の運転で譲と帰る」
色部の笑い声が、高耶の耳に流れこむ。
『後始末は、たいてい直江の受け持ちだったな。あの手際の良さに"妹"が追いつけるかな』
高耶は、ふっと息を呑んだ。
「…妹…?」
『ああ、今生のあの二人は、そんな風に見えたよ。
私の前々生の終わりの頃、そろって見舞いに来てくれていた時は、皆そう言った。〈お美
しい兄妹さんですね〉』
高耶は黙って聞いている。
『顔立ちは特に似ていないが…。それでも確かに、背の高い綺麗な兄妹に見えたな。…貴方
を喪ったかもしれないと絶望しかける直江を、晴家はよく支えた。再会を信じて待つという
ことでは、晴家以上に頑張っているものはないと知っていたから直江も勇気づけられたんだ
ろう。"大切な者を待っている"という気持ちが、二人を通じ合わせて兄妹のように傍目には
映った…。きっとそうだ』
感心していますよ、と直江は言った。いつか――そう高耶が今生の晴家に初めて会った日
の夜。酔いつぶれた彼女を寝かせて、見守るように。優しく言って、微かに目を伏せた。
色部の声が、古びた広縁へと高耶を引き戻す。
『ご家族のところへ戻りなさい、景虎殿。とりあえずは私や他の者にまかせて、"仰木高耶"
として大切なことに専念することだ』
九州のある資産家の一族間で相続問題が生じ、前当主の指名した青年を自分の陣営に取り
込もうと内部が揉めた。この青年と人違いされた成田譲が、ほぼ拉致監禁と言う目に遭った。
仰木高耶は彼を救おうとして負傷し、二人は阿蘇での天災にも巻き込まれて、知己を得た三
池家に世話を受けて、この数ヶ月を過ごしていた。
市川に刷り込むために譲の描いたこの筋書きに、高耶は真っ赤になって喰ってかかり、千
秋は肩をすくめた。
綾子は、いいじゃない、ヒーローよね、と笑い、清正は見事な筋立てだと感心した。
哲哉はどこかのミステリ映画みたいだ、と素直に感想を述べ、九郷は星加幸子が市川を信
頼しているなら受け入れるだろうと実際的な意見を出した。
譲の一見陳腐なストーリィ立ては、高耶にまつわる謂れなき悪評を少しでも払拭したいと
いう思いからなのは明らかだったから、結局、千秋は譲の肩を持った。
「おめぇは何言われても平気でもな、景虎」
縁側に置いた灰皿で煙草をもみ消して、千秋は言った。
「美弥ちゃんのことを考えたら、これに乗れ。いずれ迷惑をかけるなら、早く宿体の家族と
は縁を切るべきだ、ってのが俺の考えだったが、事情は変わった。
松本の仰木高耶、でこの先を生きていくなら、少々猫かぶって妹が少しでも生きやすくな
るように気を配ってやるべきだ」
高耶は千秋と目を合わせて何か言いかけたが、小さく溜息をついてうなずいた。
千秋と九郷は、市川に譲の脚本を刷り込み、彼自身にテープへの吹き込みとメモ書きを行
わせてから、車へ戻らせ目覚めさせた。彼が市街へと帰り、松本へ連絡を取るのを綾子が見
届けた。
「そういうねーさんは、どーなんだよ」
うまくいったから早く出立しなさい、と勢いよくがなる綾子の電話に閉口して高耶が切り
返す。
「家の方へは…」
『あたしはあんたより、ずーっとこすっからくて要領いいの! 心配なんかいりません。あ
と…んーっと、そうね、三、四ヶ月…それとも半年…、ま、そのっくらい帰んなくても大丈
夫なぐらい辻褄合わせておいてあるから! 先見の明あり?ってやつぅ?』
いいから一分でも早く松本へお帰り、と言い捨てられて切れた電話に呆れてから、高耶は
ふと彼女の言った期限は何に根拠を求めたものなのか?と思った。
「行くぞ、景虎」
門の側の木戸から庭を見ていた高耶は、ああ、と踵を返した。Tシャツ、ジーンズ、紺の
ウインドブレーカー。何もかもが新品で、寝着ばかりで過していた身体には、まだしっくり
してこない。
陽は傾きかけていた。
朝、清正と哲哉を迎えに来たものの、そのまま高耶たちの出発にむけての買出し行に忙殺
されていた長島敦は、こまめな性格らしくレパードの後部座席に置いたスーパーの袋の中身
を譲に説明している。
そのあまりにも"日常"な光景に高耶は軽く笑ったが、ふと握っていた左手を開き、湿った
輝きの珠に目を落とした。
数珠の母珠。
直江の決意と想いのかたち――。
高耶は目を閉じ、もう一度手の中にそれを包みこんだ。
――今、側にあるのは――これだけだ。
「景虎!」
玄関から清正と哲哉、それから、またまたエプロン姿の九郷がやってくる。
「こっちはまかせろ」
清正が不思議なほど、穏やかに笑った。
「…案じるな。わしはわしなりに、この罪をわかっているつもりだ」
清正は胸に手を置き、ぐっと唇を結んだ。
「だからこそ、この地の平安に替えられるよう生きていく」
偽善と呼ぶか?と瞳をぶつけてきた清正に、高耶はゆっくり首を振った。
「いや」
「…仰木」
かお
高耶は目を転じて、哲哉のゆがんできた表情に苦笑した。
「哲哉…、お前は昨日言っただろ。妹は本当に大切なことをわかってて、それを護ったん
だって。それをわかってるお前は――大丈夫だ」
哲哉は、言葉を捜すのをあきらめて目を伏せた。意をこめて右手を差し出す。高耶はそ
れを握り返した。
「ねーさんと九郷は、まだしばらくこっちにいる。よろしくな」
その九郷が手付きの紙袋を高耶に差し出した。中の可愛いピンクの紙包み――銀の細い
リボンもかかっている――に高耶はとまどった。
「ご家族へのお土産にしていただければ、と思いまして」
「なんだ、まだあったのか!?」
清正が頓狂な声を上げた。
「え、昨日のクッキー? ドーナツ!? あれ、すっげぇうまかった!」
しんみり気分も吹っ飛んだ哲哉に、高耶は呆れる。
「これは特別ですから。夜、作り直しておいたんです」
九郷は、きゃんきゃんわめく二人の九州男児をしれっといなし、高耶に一礼した。
「何かありましたら――安田様の方へ?」
「そうしてくれ」
高耶はもう一度ピンクの紙包みに目を落とし、ぎこちなく、
「ありがとう」
と言った。九郷は不意に照れたように笑い、どこにでもいそうな気持ちのいい若者とい
う顔になった。
高耶と譲はレパードの後部におさまった。小さくなる見送りの人々を振り返ることなく、
三人は火の国を後にした。
人の気配の薄くなった古い家。庭のすみれの上に、ゆうるりと卯月の夕闇が降りてきて
いた。
了('00・5・26)
いいわけ
"火輪・始末"っていうぐらいの説明編なので、そうかからないか、と思ったんですが、
いや、これがノリが来ない! なんでや、といえば…あの人がいないからだった。
清正とてっちゃんは好きなんですが、それもこれも直江あればこそ!と思い知りましたね。
終段になって、やっと話がするするしてきた、と思ったら、いつのまにかこれは「妹たちの物語」
になりました。
今生の晴家と直江については「アウディ・ノス」「イメージアルバムTのライナーノーツ」から
ずっと抱いてきた"背の高いきれいな兄妹"のイメージを、少しだけですがここに表明(?)。
次は「早月」。この話の中では、直江、三十一才に。