弥生の真珠
序・ "邂逅"の、のち
戻ってはこないかもしれない
戻らないかもしれない
景虎は越後の暗く重い海を見つめて座っている。
哭くような風、ざわめく心。
オレをかばって死んだ男
初めの生ではオレを殺した男
今はどこかでわかっている。
『あの男』が『オレ』を殺したのではない。
"うえすぎ"の直江が、"ほうじょう"の景虎を殺したのだと。
それでも換生という行為で、ふたりは『景虎』と『直江』を続けている。
本当にその名を主張できた肉体など、とっくに朽ち果てたというのに。
何度も何度もあの男は楯になった
この身体をかばい傷を負った
冷たい目のまま"後見役の義務"とやらを黙々と果たした
"かたち"に身を投げ出せるだけだ
"主従"ときめられたから それに従順なだけだ
そんなこと わかっている―――わかっているのに
ふともらすオレの揺れに 不甲斐なさに
あてられる掌の熱――喰いこむ言葉はなんだろう
――私はあなたを理解できる!
誰だって言えるだろう 晴家だって色部殿だって
なのに何故 あの男の声だけが胸の底で響くのだ?
なぜ今 こんなに不安で怖くて寒いのだ?
オレの前で破られた"壁"ともども胸を裂かれた男―――
景虎は、ぐっと膝を抱えていた腕で己を抱きしめた。
調伏光の去ったあと 荒れた土に倒れていたあの男
すでに事切れていた
こときれているとわかったのに わかっていたのに
その胸倉を掴み抱き上げたのは何故だったのか
(逝くな…!)
絶叫が口元まで 歯の裏まで押し寄せていた
必死でとどめ奥歯でかみ殺した
これは容れ物 あの男の魂はまだ生きている
"義務"を投げ出したりはしない きっと戻ってくる
『凶暴な景虎』が越後に再び仇なすことがないように
見張っているのが彼の義務
必ず戻ってくる
あの倣岸な瞳の冷たい男は 必ず帰ってくる 帰ってくる!
オレのそばに!!
なのに何故 こんなに冷たくなっていく骸が哀しいのだ?
その背で胸でオレの受けるべき傷を負ったこの身体
幾度となく 弱り くず折れそうになったこの身を支えた腕が力なく垂れているのが
―――何故こんなに辛いのだ?
真情なんてない "臣の立場"でかたどられただけの言葉だ
―――なのに何故 こんなにあの男の声を捜しているのか
戻ってくる 絶対戻ってくる
戻ってはこない―――
もう戻ってはこないかもしれない
冷たい瞳の奥で煮える傷つけられた誇り
オレの投げつける憎悪を侮蔑するきらめき
もう戻っては―――こないかもしれない
あの声が―――聞けない
寒い 寒すぎてこの浜から立ち上がれない
(崩れそうな自分を支えてほしい…)
ふと背中の寒さが和らいだように思って、景虎は顔を上げた。
誰かの手が、そっと何かを彼の肩にかける。注意深く、肩から首筋へと包みこむように。
「凍えてしまわれますよ」
知らないはずの声だった。初めて聞く声。けれど、その底にある響きは――。
全身に走ったわななきを、景虎は抑えつけた。
寒かっただけだ。
決して喜びのゆえではない。
それでも…。
口のはしからもれるそれを、留めることはできなかった。
「直江―――」