弥生の真珠
2・ 月の傷
目が開いている、と高耶は感じる。
暗いと思ったのは一瞬のこと。月の明かり、とわかる柔らかい夜。古めかしい格天井が、
真上に広がっている。
ここはどこだ…?と、心中でつぶやき、またとろとろと思考がゆらぐ。
・ ・
いや、今はいつ?
どこにいて、いつの時間にいて、オレは何者…?
もう何もこれは確かと言えるものがない。
狂ッテル――?
狂ッテタ――?
何が本当で何が嘘で誰が本当で誰が嘘で。
――ただひとつ、わかっていることは。
ひく、と喉が鳴って、身体が布団の中で跳ねる。
熱をはらんで、けだるい"身体"がある。
どこかの――きちんとした清潔な寝具に横たわっていることにも気付きはしたが、口腔
に駆けのぼってくる絶叫をとどめられない。
――『直江がそばにいないことだけだ』
「あ…」
突き上げてくる熱く凝った絶望に、再び身体がびくりと震えた時、何かが高耶の髪に触
れた。
顔を力なく傾けて、高耶は目を見開いた。
足元の方の白い障子がはらむ月光。それを左頬、左肩に受けて、そっとのぞきこむ枕辺
の男。
――目が覚めたら、きっとおまえが…。
――お前は狂ってたんだ!
すがるような己のつぶやきと千秋の激しい叱責が、額の奥で交錯して激痛になる。
白い寝着に身を包んだその男は――けれど高耶の髪をそっと梳き続ける。瞳がまっすぐ
に見つめてくる。高耶は、まなじりが裂けんばかりの狂おしさで、男を見上げ続ける。男
の手がふと止まり、それを合図に小刻みに震えはじめた高耶の頬に触れる。
(夢だ、これは…)
むしのいい都合のいい夢。本当のオレは、今どこにいる? あの雪の中、木にもたれて
冷たくなっている――うん、そうかもしれない。夢だ…。もう一度、おまえが欲しい。そ
の浅ましい願いの作る幻の中にいて――多分、死に近づいている。そう、今度こそ、本当
の"死"。あの日、直江を連れ去った"死"の手の中に。…それとも――本当に裏切ったのか、
直江? 本当におまえはオレを見放したのか? オレの目の前でオレのために死んだおま
えは、あそこでいなくなって――。甦ったおまえは、もうオレなど…。
「高耶さん」
なのに…その声を聞いたとたん。
高耶は必死で両手を伸ばした。自分の上にかがみこんだ男の肩をつかまえる。肉体の手
応え。
(でも、きっと――これはまぼろし。
それでも――それでも消えてしまわないでほしい。お願いだ、夢を見させていてほしい
…!)
不意に激しく抱き込まれて、高耶は荒く息を吐いた。この腕の強さ、この身体の熱さ、
この胸の…。
高耶は、再び身体を強ばらせた。
胸の…。
男は気付いたようだった。固まった高耶の腕をほどいて、彼はそっと寝着の合わせを開
いた。
胸の中央、わずかに左よりに、ひきつれた銃痕が現れた。
無惨な証が―――。
高耶の目の中でその証が揺れる。自分たちを包む炎の幻影。萩のあの炎の中、叫び続け
た名前――そして。
高耶は、はっと喘いで月光を受けた男の目を見上げた。
彼も――叫んでいた、自分の名を。阿蘇のあの絶望が生んだ炎の中で。抱きしめて…叫
んでいた。金と白の光が降り注いでいた。優しく暖かく。でも自分を混沌から呼び戻した
のは、あの声と腕――喪ったはずのそれだった。
「直江」
抱きよせられて傷跡に頬をよせた。左の手をそっと取り、その手首に残るー文字の傷に
唇をあてた。涙があふれてくるのを感じながら、その背中に指を走らせ、布越しに知って
いる沢山の傷をたどって震えた。
――この腕だ。この腕に抱かれながら聞いた。
不意に清明になる記憶。
――譲がいた。優しい哀しい目で。
義父上がいらした。暖かく力強い声で、
『お前を見守っている』と…。
・ ・
この腕の中で――。
いだ
ふたりは、ただ名を交わし、抱き合っていた。
柔らかな月明かりの中で。