弥生の真珠
もと
3・ 陽光の下にて
明るい。
ぱっと開いた目の中に映ったのは、どこかの旅館のような天井。立派な、年を経た日本
家屋にしかないような。
起き上がろうとした高耶だが、体中がじんわりと痛みを訴えるので、力尽きた。と、側
にある人の気配が、求める者のそれではないと気付いて心がすくむ。しかし、おびえるよ
り先に。
「まーあ、無茶を」
伸びてきた白い小さな手。ぽん、と彼が跳ね飛ばした上掛けを、肩へかけ直す。見下ろ
してくる卵形の顔の中、細くなる笑った目。
「…か…あさん…」
まばたきをひとつして、高耶はぱっと赤くなった。ちがう、母ではない。記憶の中の母
は、仙台で再会した母には追いつかず、若いままだけれど、この女性は本当に若いのだ。
明るい障子越しの陽光の中、少しくせのあるショートヘア、若草色のセーターにジーンズ
という姿の彼女は、高耶の右の枕辺に正座して濡れたタオルを手にしている。
よく見れば、そんなに母と面差しが似ている、というのでもなかった。ただ、まとう空
気が似ている。母親、の持つ独特な…。しかし、その奥にどこか高耶も見知っていたよう
な何か、が感じられる。
そのせいだろうか。警戒もなく当たり前のように訊いてしまった。
「直江は…?」
彼女は微笑んだまま、ちらっと眉を寄せた。
「離れに戻っておられます。昨夜の無理で、回復してきていた分を一気に駄目にしてしま
ったので」
彼女は、ふう、と小さく息をついて、タオルを左の洗面器の中に入れた。
「貴方のこととなると、本当に無茶で。あれだけ皆で言ったのに」
やはり"当たり前"のように答えたこの女性を、高耶は改めて見つめた。だが、言葉の意
味をつかむなり、しゃにむに起き上がろうとする。
「だめです!」
抑えようとした彼女の手を振り払おうとしたが、身体がぼうっと熱を帯びていて、力が
入らない。それでも立とうとあがく。
「今、側に行かれたら、直江殿をもっと弱らせます! よろしいんですか、それでも!?」
ぴしりと打つように間近で叫ばれて、高耶はびくりと凍った。
「直江…」
「様子を見計らって、会えるようにしてさしあげます。貴方もまだ起き出すには早いんで
すから」
わめきだしたいのを、どうにか高耶がこらえることができたのは、また、この女性のこ
とが気になったからだった。だが――妙だ。知っていると思う。彼女の"気"を見定めよう
み
とする。しかし、どこか<力>の焦点が定まらない。当然のように『視えていた』のに、
もやのように漂うものは感じるが、はっきり掴めない。
「<力>が落ちられたのではありません」
高耶の不安を、彼女は先取りした。
・ ・ ・ ・ ・ ・
「厳密に言えば、そうかもしれませんけど…。この島々の霊的な土壌自体が、少し変わっ
たんです」
女性は表情を改めて、高耶に一礼した。
もとのな
「お久しゅうございます。原名、猪飼和道でございます」
「…和道…?」
高耶は、ぼんやりつぶやいてから目を見張った。彼女――猪飼は、またふわりと笑った。
その笑みが、すい、と懐かしい遠い記憶の中のそれと重なって、高耶は息を呑んだ。
「…和道? 本当に…?」
「ええ」
かつて、いかつい顔の中で笑った目。猪飼の急な病死で断たれた、人としての交わりは
余りにも短くて、突出した思い出のできる間もなかったが、それでもこの笑みの感じは心
のどこかに残っていたのだった。
「順を追ってお話したいと思ってはいますけれど、とりあえず目を覚まされたことを皆に
…」
猪飼が言い終わらないうちに、障子の向こうに、どたどたと足音が近づいてきた。
「…きしょ! 駄目だぜ、猪飼! 晴家のやつ、俺とじゃ交代しねぇの一点張り!! お前、
行ってくれよ。あのままじゃ、あいつも伸びて厄介ごとが増えるってのに!!」
不機嫌なわめき声とともに、建具がすぱーんと開いて、髪をくしゃくしゃにした千秋修
平が現れた。
「千秋…!」
高耶の驚きに、相手がほう?と唇をすぼめた。
「大将、やっとお目覚めかよ」
にやりと笑って、彼は部屋へ入ってきた。猪飼の隣にどすんと腰を下ろす。
「この二週間、目はあけても頭はどっか行ってたもんな。さすが直江、眠れる座敷の何ト
カを起こしたか」
一気に言って高耶の顔をじっと見た千秋は、猪飼に問いかけた。
「また熱あんの、こいつ?」
猪飼は、さっき洗面器に入れたタオルを手に取り、絞った。『○○米店』のような文字
が入っているのが、妙に現実的だ。
「少しね。輝炎石の影響でしょう。佐伯さんも前ほど大きいのは作れなくなって、小さめ
のを複数使う形になりましたから、負担が違うのかも」
(佐伯…。佐伯遼子、あのヒムカの…。彼女も…そうだ、哲哉の妹が火口から救って…)
猪飼が額に乗せてくれた冷たいタオルの下で、高耶の瞳が落ち着きを失う。
阿蘇の紅…鬼八の怨嗟の叫びが身体を駆け巡って…。そして直江が…直江が…?
「直江……」
高耶は激しくかぶりを振った。タオルが落ちる。
「なお…っ、直江っ!!」
「! 景虎さまっ!」
宙を見つめて、いっぱいに見開かれた目の映す混乱に、猪飼が息を呑む。
「景虎! おい…! ちっ、この…!」
さほど、力はこもっていない――しかし、的確な平手打ちで、高耶は我に返った。猪飼
がタオルを拾いながら、あーあ、とつぶやくのが聞こえた。
「直江殿から倍返し、ですね」
「んな体力あるか、あの死にぞこないにっ!」
がっと歯をむいて見せてから、千秋は高耶に目を戻した。
「バカ虎!! 直江のことしか思いつかねーのなら、それだけでいい! 何を覚えてる?記
憶はどこまでだ? ゆっくり話してみろ。おめぇがどこまで解ってるかで、こっちの答え
も変わるんだ」
小刻みに震えて見上げる高耶の額に、もう一度冷たいタオルが乗せられ、今度は白い手
がそのまま上にとどまった。何かひんやりとした涼やかなものが、そこから伝わってきて、
身の内でうねる熱い蛇のようなざわめきを鎮めていくのがわかった。
高耶は大きく息をついた。
「オレは…逃げたんだろう…? また…逃げたんだ。あの時、直江をこの世界に置き去り
にしたように…。
…直江を…失くした世界から…」
乾いた声を、千秋と猪飼は静かに聴いている。
「でも…直江だった…!」
高耶は目を見開き、唇を震わせた。
「譲が――分かれた時も、義父上の声を聞いた時も…!支えてくれていた…あれは直江だ
った!」
そして――月の光を分かち合ったあの男。抱きしめ、名を呼び…大切な傷を持っていた
男。高耶はあの腕を思って、目を閉じた。
「あれは…直江だ…」
一瞬の間を置いて、千秋が肩をすくめた。
「…ったく…。そうだよ、ピンポーンってやつだ。
景虎、おめぇが今寝てるのは、白水村の古いでかーい家だ。吉見の水源が真裏なんで、
三池の連中に借りてる。水の霊威が必要でな。こっちが母屋、ここは座敷。廊下でつない
だ離れがそっちにあって」
千秋は自分の入ってきた障子を示した。
「直江はそこだ」
見上げる高耶に渋い顔をする。
「ただし具合は良くない。直江は水の霊威と相性がよくて、お前より早く持ち直していた。
なのに…あのバカ、ゆうべ俺らが目を離した隙に、お前のところへ来ちまった。
まーな、ろくに眠れずにいただろうよ。お前は壊れたラジオみたいに、眠ったままやつ
を呼び続けていたからな。
けど、お前の方の回復を受け持ってんのは輝炎石だ。三池やヒムカの連中も、弥勒の吸
収の影響は受けちまったが、小さめのは何個か作れたんで、今お前の中でがんばらせてる。
だが、霊水に頼る直江は、もともと完全には復調してなかったところへ持ってきて、お前
ン中の石との異種力反発をもろに喰らった。
…んで、折角の回復が文字どーり、水の泡」
「直江…」
今度こそ直江が近くにいると呑みこめた高耶が、肩を起こそうとするのを、千秋は鼻息
荒く押さえ込んだ。
「きーてんのか、バカ虎っ! 今お前が行くと、直江を消耗させるんだってばよっ!」
「…しょう…」
「人の話、聞けっ! お前の身体が借りてる炎の力が強すぎんだ! 強すぎて直江を持ち
直させて護ってる水の力を蹴散らしちまうんだ! わかったかっ!? 」
「安田殿」
ふっと、二人の間に、猪飼が手を差し入れた。高耶の肩をぽんぽんと叩き、じっと千秋
を見つめる。千秋がすねたように下唇を突き出し、がりがりと頭をかいた。
「まあ…、…絶対直江にさわんねーって約束するなら…」
猪飼が微笑んだ。
「柿崎殿と色部殿もおられますし」
色部!?と、高耶がまた驚くのを見やって、猪飼は優しく言った。
「お話しすることが沢山あるんです。でも、まず直江殿のお顔をごらんにならなければ聞
いて下さらないようですから」
千秋が不意にくるりと背を向けた。
「おらよ」
「え…」
呆けたような高耶の反応にいらだって、千秋の肩がいかる。
「おぶってやるっての!! 立つのがやっとだろ、お前!」
がなる千秋の脇で、猪飼がくすりと笑った。