弥生の真珠
4・ 邂逅、再び (1)
高耶は千秋の背に負われて、廻り廊下へ出た。ガラス越しの明るい陽射しに、目をしば
たかせたが、眼前に開けた広い庭に漂う外気の気配はひんやりしていた。左手に広がる庭
園の中心には、見事に枝を張った大きな木。そして高耶のいた座敷の向かいには、千秋の
言ったどっしりとした離れがあった。もう地方でも珍しくなってきた、昔ながらの平屋の
日本家屋。いぶされたような色合いの廊下を右へ行き、湯殿の前を通って離れへの通路に
入る。母屋と同じ廻り廊下をたどって、ひとつ部屋をやりすごし、奥へ行く。
ついてきていた猪飼が、すっと膝をついて、室内へと声をかける。
「色部殿、景虎様です」
人が立ち上がる気配。障子がすい、と開く。栗色のセーターからダンガリーのシャツの
襟をのぞかせた浅黒い青年が現れた。濃くまっすぐな眉の下から、二重のくっきりとした
目が、少し高い位置にある高耶の顔を見つめた。その目が、くしゃりと笑いじわに埋もれ
る。
「ようやく目を覚まされたか」
彼は深々と一礼した。
「久しいな、景虎殿」
「…色部…」
つるつると耳が逃すばかりだった猪飼の言葉の一つが、ふと意味を持つ。
――この島々の霊的土壌が…
確かに、今までは知らず知らずのうちに読んでいた人の気配が、淡くつかみにくいもの
になっている。だが、この男は――。
高耶の表情がくずれて、半分泣いているような笑顔になった。
言葉は出なかったが、色部はその目の中を読み取った。ぽんと千秋の首に回されている
高耶の前腕を叩いて、色部は彼らを室内に迎え入れた。
そこは高耶の寝かされていた母屋の座敷よりは、少し小さい八畳の和室だったが、正面
の床の間、押入れの位置や襖の柄が同じで、双子のようだった。中央に清潔な寝具がのべ
てあるのも同じだったが、布団は廻り廊下に沿う方向で敷かれていた。
枕元の向こう側から、綾子が腰を浮かせた。ソバージュの長い髪を後ろにひっつめるよ
うに結んで、白いセーター、ジーンズの上に青いエプロンをした彼女は、少し疲れたよう
な笑みで高耶を見上げた。
「景虎…」
ねーさん、といつものように応えようとしたが、高耶の目は床に横たわる男の横顔に吸
い寄せられたままになった。
整った顔はあまりに白く端整で、生ある者のように見えないほどだった。千秋が震え始
めた高耶に気付いて声をかけようとした時、穏やかな低い呼びかけが先んじた。
「高耶さん」
床からまっすぐな目が高耶をとらえた。千秋は、一歩部屋へ足を踏み入れて、高耶を下
ろしたが、その肩をしっかり押さえた。もがいて振り払おうとする高耶を、反対側から猪
飼も止めにかかる。
「今は駄目なんです。お話しましたよね」
見た目より、彼女は力が強かった。高耶は直江と視線を結び合わせたまま、半畳ほど近
づき、猪飼とともに正座した。
二年前の正しい記憶、あの別れの時より、更にやつれて白い顔をしていたが、直江は落
ち着いたまなざしで彼を見つめていた。
月の光を浴びて抱きしめてくれた時と同じ―――。
「直江」
高耶に紡げたのは、その一言だけだった。直江がゆっくり身を起こし、その左肩を綾子
が支える。色部が彼の後ろを回りながら、畳まれていた羽織を開き着せ掛ける。と、高耶
の右側に座っていた猪飼も、呼応するような動きで、高耶の肩に同じような羽織を掛けて
くれた。色部はそのまま床を回って、寝具をはさんで高耶の正面に座る。千秋が猪飼とは
反対側、直江と高耶の間をさえぎるように、腰をおとしあぐらをかいた。
三月の澄んだ午前の空気の中、夜叉衆は久々に顔をそろえた。
色部が、すっと上背を正した。
「思い出されたか、景虎殿。この二年間を…」
直江からひきはがすように目線を色部に向けた高耶は、小さく息をついて目を閉じた。
「ああ」
ゆるく首を傾げて、苦く自嘲した。
「…多分」
色部はゆっくりうなずき、ちらりと直江と目を合わせた。再び、貪るように直江を見つ
めていた高耶には、彼の目がそれた瞬くほどの時間さえ、痛みのように思えた。
色部が再び口を切った。
「子供の身体だった私が、事故に巻き込まれて換生をやむなくされたのは、一年半前のこ
とだ」
どこかの学校の山岳部の指導者、という風情の青年の口から聞くと、いやに幻想めくが、
語尾のはっきりとした締まった物言いは、確かに色部のものだった。
「…この猪飼に助けられたことから、長秀を通じて夜叉衆の置かれた現状を知った。萩で
の戦い、織田と再び相まみえたこと、そして――貴方と直江の上に起こったことを」
高耶は息を呑んで、膝の上の手に力をこめた。
「あまりの衝撃に、貴方は別人――風魔の頭の憑依している男を、直江と信じ込むことで
自分を支えた。『貴方にしかできない事』が目前にあったために、傷つき絶望した自分を
封じるしかなかった。夢だと思うしかなかった貴方自身を責めないでほしい。
謙信公…いや」
色部も苦しげに眉を寄せた。
「貴方の義父上もまた心を裂かれたのだ。貴方のその姿に」
高耶は、はっと色部を見やった。
「猪飼が長秀と接触した直後、我々は謙信公に呼ばれ、日光の地へ赴いた。そして男体山
の奥で、霊水によって甦りつつある直江に引き合わされたのだ」
八海によって運ばれた直江の肉体が、霊威を帯びた水の中でゆっくりと元の形に戻って
いくのを見守った。
「返してやりたいのだ、と謙信公は言われたよ」
色部の声は優しい。
めい
この男を景虎に、と。自分の命ゆえに傷つき、深い悲嘆に沈んだ景虎を救いたい。それ
は純粋な親の心。今度こそ、忘却の河を越えようとしていた直江の魂を、謙信はすくいあ
げ、一番負担なく入れる彼自身の遺骸に戻し、その肉を再生させることに賭けた。
ことわり
「しかしながら、一度こときれて荼毘に付された身体を甦らせるのは、世の理から遠く離
れた所業ゆえ、謙信公も苦慮され、ご自身の霊力をかなり削ぐ形になってしまわれた。荼
すいき
毘に用いられた箱根の聖油も、竜の持つ"水気"で力をくれたのだが」
「私たちは謙信公のお手伝いをして、直江殿を見守る一方、闇戦国における力の分布、事
の推移を見ておりました。そして、直江殿が自ら呼吸できるようになられた日、謙信公は
決意を述べられたのです」
猪飼が、流れるような涼やかさで語った。謙信の思いを。
弥勒を自らの存在全てを賭けて、六道界のめぐりから解く。
闇戦国は本来あるはずのないこと、弥勒が肉の器を得て、六道のめぐりに引き込まれた
ことから始まった。
弥勒が人の世に出現したことで、この島々の霊的土壌が力を増し、さすらう霊たちに意
をかなえようという志を持たせた。その「あるべきではなかったこと」のために、全ての
流れが狂いはじめた。これ以上歪んでいかないために――人の肉を得て、強大な力を持ち
ながらも揺らぎやすいものとして存在している"弥勒"が、この世を崩してしまう前に、天
上にお帰ししよう。かつて"上杉景勝"、今は"成田譲"として在る者の今生をここで断つ形
になっても。