弥生の真珠
4・ 邂逅、再び (2)
皆、声はなかった。
色部は、自分に鋭い視線を向けた高耶に、瞳でうなずいた。
「けれど、直江が異を唱えた」
高耶は直江に目を戻した。彼は白い静かな顔のまま、目を伏せている。
「譲君に今生の死が来るまで、護り抜けばいい、と彼は言った。
護ってやってほしいと預けた譲さんを、貴方から奪うのは、貴方を――仰木高耶を義父
上の親心からとはいえ、否定してしまうことだと」
「謙信公が自ら、とは、絶対駄目だと」
澄んだ声で、猪飼が引き取る。
「汚名を着てもかまわない。どうにもならない、どうにも出来ないという事になったなら
ば、その時は責を負い、譲さんを手にかけて」
高耶は呼吸を忘れた。
「景虎様に憎まれよう、と」
直江の表情はぴくりとも動かず、猪飼の声はなめらかに続く。
「直江殿は、自ら逆賊として新上杉を建てる、と言われました。
新上杉を名乗って、怨将として闇戦国を制することで、譲さんを護る。本来の上杉の名
とその理想に傷はつけない。自分が、謙信公の御名をも騙った逆臣になれば済むのだと」
高耶の左側で、ふ、と千秋が首を回した。
「なんてっかな…。らしすぎて呆れるわ」
目を伏せたまま、微かに直江の口端が上がった。苦いものを見たように思って、高耶は
口を開きかけたが、色部が再び話し始めた。
「私たち――私と猪飼は、彼に協力することを選んだ。私は直江と共に陽威ダムによる制
覇計画を立てたが、一方で、怨将中、最も脅威である者、信長をどう封じるかが難問だっ
た。
この方面では、猪飼が軒猿の九郷と組んで、明智光秀に近づき、その真意を掴んだ上で
協力を持ちかけた」
信長と聞いて、高耶の目が険しくなる。そこへ、
「織田信長はこの世を離れました。光秀殿とともに」
高耶は、甘いとさえ言えそうな口調で伝えた猪飼を凝視した。彼女は小さくうなずいた。
「それが――望みだったのですよ。魔王を名乗った人の」
ただ一人。自分の信じたただ一人に裁かれることを望んだ――不安で孤独な魔王。
猪飼は一瞬瞑目したが、再び前を向いて顎を上げた。
「そして譲さんは"種"から解放され、私たちの予想を超えたあの鬼八の炎の元へ行かれた
のです」
「…覚えておられるか?」
色部の問いに、高耶も思わず目を閉じた。
本当の――真紅の記憶をひきずりだしたあの炎。
そうだ、灼かれるはずだった。阿蘇の業火と鬼八の怨嗟の炎に灼かれて…。
連れていってくれ。
置いていくなら、連れていってくれ。
望みはかなうと思った。あの腕に抱かれ、あの声に呼ばれて。
けれど――それは、この世へと引き戻す力だった。
そして譲が―――――。
「譲が…降りてきたんだ」
高耶はつぶやいた。
「悲しい目をしていた。どこかで見たのか…」
それとも見た、と思ったのか…。愛刀、吉祥丸による自刃のあと、怨み叫ぶ霊として―
―景勝の目を。
「光って…分かれて…身体の熱が吸い込まれていった。そして――」
天から注いだ白い光。
「義父上の声だった」
――ありがとう、景虎。
白い限りなく優しい光が、そっと触れて…。
がくりと夢から覚めたように、のめった高耶の身体を千秋が右腕で引き戻した。再び直
江へと貪るような目を向けた高耶は、びくっと震えた。直江が彼を見つめていた。思わず
手を伸ばしかけたが、直江の肩を支える綾子の眉がくもったのにはっとして、動きを止め
た。
「…んで…」
高耶は小さく唇を動かし、あえいだ。
(なんで、そんなに――)
優しく哀しそうに…。
「浄められてしまったのを、お感じか? 景虎殿」
色部の案じるような声に、高耶は何とか注意を向けた。
「ああ。…猪飼がさっき言ったのはこれだったんだな」
何もかもが…。そう、一度に洗い流されてしまったように。
空気が澄み、人の身体から立ちのぼる精神の波も、さまざまな霊の発するはずの泡立ち
も、今は淡く静かなのだ。色部はうなずいた。
「憑依霊、浮遊霊、それとわかるほどの力を持つ者は、皆、弥勒とともに天へ帰された。
あの圧倒されるよりない慈しみの力が広がり、この地にしみとおるのを感じた」
他の者もうなずきを示した。
「闇戦国に関わるほどの力を持っていた者は、浄められ上がった。我々――換生者は残さ
れたが」
そう、換生という手段で、ではあったが、やはり彼らはこの肉体の主であり、"今"を生
きている。浄めの影響は、突出した霊力を摘み取ったかに思わせるが。ここにいる夜叉衆
は、それでもやはり強いのだろう。各人をそれぞれと認めさせた魂の波動がうかがえる。
綾子――晴家。千秋――長秀。まだ現名は知らない色部と猪飼。
そして――。
(直江…)
白くやつれた顔の中から、まっすぐにこちらを見つめる瞳。
そう――夢じゃない。歪んだ記憶でもない。これは直江だ。本当の。ただ一人の。
と、ふっと直江の目が伏せられ、わずかに眉根が寄せられた。いつ立ち上がったのかと
思うほど静かな動きで、猪飼が高耶と千秋の背後を通った。綾子と目を見交わすと、直江
の傍らに膝をつき、彼の右肩を支えた。条件反射のように、高耶の心の奥が揺れた。ごく
当然という匂いで、直江に触れた猪飼の白い手が目の中でぶれる。
小さく喉の奥のいがらっぽさを呑み下して、高耶は無理やり色部に目を向けた。
「譲は…。譲はどうなった?」
初めて、色部が表情をゆるめた。目のふちに笑いじわが現れる。
「大丈夫だ。外科的な手術が、ニ、三必要な怪我だったので、県立の総合病院に入ってい
る。佐伯遼子や、三池の祝子たちが見てくれていて、生命の心配は全くない。意識も記憶
もしっかりしている」
ほっと肩の力を抜いた高耶だったが、次の綾子の言葉にぎくりと身をこわばらせた。
「開崎も同じ病院なのよ」
高耶の身体を、発熱とは違う熱が走り抜けて、彼はまたぞくり、と震えた。
きしむような動きで直江の姿を求めて、高耶はとまどった。先ほどまでの静かな瞳とは
異なる――激しい熱い目。"開崎"の名で呼び覚まされた、あの夜の男の瞳の記憶と重なる。
「まあったく、直江、入ってないと、すっごく普通のビジネスマンってやつ? カン狂う
のよー!?」
妙に明るい綾子の声の中に、思いもしなかった謎解きを拾って、えっ、と高耶は声をも
らした。色部がそれを受けて、苦笑しつつ補う。
「入ってた、じゃないさ。まあ…、彼には申し訳ないことになったが、直江の身体がまだ
霊域を出るまでには回復していなかったから、霊波同調で肉体を借りるしかなかった」
色部の言葉が、高耶の内側で痛む――それでいて忘れられない――記憶と響きあう。
(…霊波同調…で)
では、あの男は――!
あのぬくもり、あの激しさ――あの嵐のような時間は!?
不開の門で探り合い、求め合い、伝え合おうとした"想い"は!?
(おまえ…だった…?)
高耶の動揺をよそに、色部が再び声を改めた。
「換生者が残っている、とは言っても、我々に関して言えば、今のところ『常人よりは
霊力らしきものがある』という程度のようだ。この状態がこのまま続くのか、それとも
変わってくるのかは、まだわからないが…」
言葉がとぎれたのは、廊下から足音が近づいてきたからだった。障子の向こうで腰を
おとす気配がして、声がかかる。若い男の。
「よろしいでしょうか、皆様方」
「おう、はいれや」
くだけた応答をしたのは千秋だった。開いたその向こうで一礼したのは、淡い金色に
近い茶色の頭。顔を上げた若者を見て、高耶は驚きの声をあげた。
「…お前は…!?」
白い肌に繊細な作りの美しい目鼻立ち、くっきりとして大きい瞳は、わずかに緑を帯
びた仔鹿色。かつて波多山智と名乗って、城北高校に現れた時よりはずっと背も高くな
り、身体つきもしっかりしているが、確かにそれは森蘭丸の魂を宿していた者の姿だっ
た。
しかし、驚愕のあとには、なぜ?という混乱が高耶を襲った。
("気"が違う…)
禍々しさを秘めたあの尊大な―― 一途すぎるものだけが持つ狂信的な自信が、そこ
にはない。
はしっこい、明るい生意気そうな少年が思わぬ事態に直面して、とまどって、照れく
さくて、逃げ出したがっている――そんな雰囲気のある赤面を高耶に向けて、かしこま
っている。高耶はますます困惑する。
(この気…。…知ってはいる)
「九郷だ、景虎」
千秋がにやりと笑って言うと、若者はもっと赤くなってうつむいた。
「九郷!?」
この…蘭丸の宿体であったはずの若者が?と高耶は目を丸くした。その背に猪飼が声
をかけてきた。
「九郷は私に加勢して、蘭丸の身体に依り憑き、動きと<力>を妨げてくれたのです。
けれど信長の浄化を目の当たりにした蘭丸は、争うのをやめ、自ら九郷に肉体を明け渡
して主人のあとを追いました」
「はからずも…、換生してしまいました」
見ると、色白な手先まで紅潮させて、若者は再び頭を下げた。
「ちょっと…慣れるまで変な感じがしますね」
森蘭丸という因縁を含んだ相手の姿の――別の人間。そしてその身体を捨てて、主に
殉じた仇敵に惑いを覚えながら、高耶はふうと息をつき脱力した。
一度に聞かされた事の顛末を消化しなくては、と自分に言い聞かせるのだが、想いは
――背中の向こうへと戻っていく。
二人にしてほしい。
触れることはできなくても、直江だけと向き合う時間がほしい。
まだ何も、彼自身の口からは聞いていない。
思いきって言おうと身体を戻した高耶は、色部がはっと腰を浮かせたのを目にして、
その視線の先を追った。
「猪飼っ!」
千秋の怒声と手が同時に、直江の右側にいる猪飼に差し出される。さっきまで血色よ
くふっくらしていた女の顔が、直江に劣らぬ蒼白に変じている。
「馬鹿やろ、増幅ならともかく、自分の生気まで注いじまったら死ぬだろうがあっ!!」
白い顔で、それでも落ち着いた様子はくずさない猪飼を、直江がそっと千秋の方へ押
しやる。それから。
「…直江っ!」
反対側から叫んだ綾子に身を預けるように、直江は倒れこんでいった。
「直江!!」
勢いこんで立とうとした高耶の肩が、背後から止められる。
「駄目です、景虎様っ!!」
元の蘭丸の声でそう叫ばれて、高耶はますます惑乱し、もがいたが、色部の手に右肩
を押さえられ我に返った。
「すまない、景虎。出ていてくれ」
目を見開き、唇を震わせた高耶に、色部は辛そうに目を細めたが、前生で培った医者
としての口調で告げる。
「思っていたより、貴方の中の輝炎石の反応が強い。同じ部屋にいるだけでも、直江に
は負担が大きすぎる」
高耶を押さえている九郷が、思い出したというように早口で言う。
「三池の方々が霊水を持ってきて下さっています! それをお伝えに…」
「早く言いなさいよっ!!」
直江の頭を抱いた綾子の叱責に、わ、と飛び上がったものの、九郷は高耶から手を離
さなかった。
「そうか。…すまない、景虎殿」
もう一度告げる色部の表情に、余裕はない。高耶は唇を噛みしめ、すがるように直江
を見た。
と、直江が何か言いたげに見つめ返してきた。唇が動いた。
わずかな抑制も飛んで、さしのべた高耶の左手に、胸のあたりで握りしめられていた
直江の右手が届き、熱い掌に何かを落としこんだ。
「直…江…!」
「九郷、早く連れてけ!」
千秋が猪飼の手を引いて立ち上がらせる。
「私は大丈夫。庭でまた力を借りられます」
白い顔の猪飼が、きっぱりと言う。
「安田殿、景虎様を。九郷、三池の方々と霊水をこちらへ」
「よっしゃ!」
「はい!」
千秋は、呆然と掌の中を見つめる高耶を担ぎ上げ、廻り廊下へ出た。猪飼が砌石に降
りて、庭の大木に近づいていく。九郷が千秋を追い抜いて、先に母屋へと消えた。
大日如来が刻まれた真円の珠。
数珠の母珠だった。
再び布団に入れられて、高耶はずっと顔の上にかざしたそれを見つめていた。
これは――あの魔鏡に封じられた自分の魂を救うまで、と直江によって、この肉体こ
の口に含ませられた母珠だった。
あの時、湖に浮かぶボートの上で口から取り出し――無意識に彼に返した。
――ありがとう。
あの時はあんなに素直に言えたのだった。本当は失われた理想郷を想って…泣きたか
ったのだけど。
それでも生き続けることが、直江の選択だったから。
何処かへ向かうために。二人で向かうために。
だが――そのあとの自分は、過ちへと進んでいった。
古い鎖に頼ることを繰り返し、疲れきった直江をさらに追い詰め、口にしてはならな
い言葉を突きたてた。
――代わりなんて、いくらでも。
苦しめた。悲しませた。絶望させた。
そのさなかにも…。
(これを…持っていたのか、直江…)
一縷の望みを抱き続けたのか…。
傷つけられ、死におとされて…なお。
そうして――オレのために、誹られる覚悟もし、裏切り者と呼ばれることさえ受け入れ
ようと…。
高耶は母珠を握った手の甲を、額に押しあてた。
涙が一粒、まなじりから耳の方へと落ちていった。