弥生の真珠
5・ 夜闇の真珠
夜半、部屋の外のあわただしい気配で、高耶は目を覚ました。
ぽわんと小さな枕元の光。その中に浮かんだ綾子の姿が、目に映る。
「ねーさん…?」
「あ、起きたの?」
枕元についていてくれたらしいが、どうやら彼女も、うとうとしていたようだ。相変わ
らず、髪を束ねてエプロン姿の綾子は、目をぐいとこすって、しゃんと立ち上がった。
「なんか、うるさいわね。離れ?」
口にしてから、彼女と高耶は、はっと目を合わせた。跳ね起きようとする高耶に、
「寝てなさい!!」
と、声をぶつけて障子をたん、と開いた綾子は、息を呑んで動きを止めた。
正面の庭、大木の根方のあたりから翡翠色のもやが躍り上がり、月とは異なる光源とな
って夜闇を退けている。中心にいるのは猪飼だった。両の手を幹にあて、わずかに背をそ
らし天をあおいでいる。全身を包む翠色が触れているところから木肌に移り、微妙な明滅
を繰り返しながら、じわじわと広がり、ついには枝々の先まで同じ光に染め上げられる。
ひときわ大きな明滅のあと、猪飼の肩が動いて、一気に小柄な身体の中に全ての翡翠色を
取り込んだ。彼女の輪郭だけが、ぽうっと淡く光った。猪飼は一瞬ひどく哀しげに梢を見
上げると、素早く離れの方へと走り去った。
入れ違いに、離れから髪をほどいたままの千秋が廊下を走ってきた。
「長秀! 直江…」
言いかけた綾子を目線で抑え、千秋は立ち上がりかけていた高耶の真正面に来た。眉を
寄せ、低く言う。
「直江を日光へ移す」
高耶が目を見開く。
「とっつあんが、結界を張って直江を包む。その中を猪飼が樹精の気で満たして、日光ま
で護る。今、三池が搬送車をよこすから、清正の待ってる空港まで俺もついていく」
唇を開きかけた高耶の肩を、千秋の手がぐっとつかんだ。
「折角の水の霊域だが、ここは土地全体がまず火の力を帯びてる。直江には負担が大きい
んだ。やつを元通りにするには、日光っていう母胎に戻すしかない」
そう冷静に言っても、夜中に動かすということ自体が、すでに事態の緊迫を伝えている。
離れに駆け戻る千秋の後姿に、我に返った高耶が再び立とうとした時、庭の方から人の
ざわめきが近づいてきた。
「安田様っ!!」
「おうよっ!」
九郷の声に千秋が応じ、夜の庭を三池の祝子であろう男たちが、ストレッチャーを押し
て通り過ぎる。
「景虎っ!」
庭へ飛び出そうにも力の入らない高耶の身体は、綾子の制止さえ振り切れず、二人は廊
下との敷居の上にもつれるように崩れた。
ぽうっと銀色の光の輪が、離れから来る。ストレッチャーの脇の、色部を中心にした結
界の光の内側に、彼の傍らにいる猪飼の全身から放たれる翡翠色が満たされ、横たわった
まま運ばれていく人影を包んでいる。
みたび
三度、立とうとあがく高耶を、綾子は全身の力と残っている<力>で押さえこんだ。
「直江!!」
「駄目よ、景虎っ!!」
「離せ! なお…直江ぇっ!!」
目を閉じたままの横顔がちらりと人の間に見えた、と思ったが、白銀と翠の光は夜へと
消えた。
遠い車の発進の音の響きが耳の底からなくなるまで、綾子は高耶の背を抱えこんでいた。
「大丈夫よ、よくなるから…」
かすれてきた繰り返しに、綾子は言葉を継いだ。
「あんたの身体が良くなって輝炎石が要らなくなったら、会いに行けばいいのよ。その頃
には、直江も良くなってる。きっとよ」
――きっとよ、景虎。…きっとよ…。
繰り返す綾子の声が次第におぼろになり、別の声が内から甦ってくる。
――あなたをひとりにはしない…。
手の中の珠だけが高耶の側に残り、持ち主の想いを囁き続ける。
ふと、外の何かが高耶の目を惹いた。今までとは違う静かな彼の動きに気圧されたよう
に、綾子が身を引く。
高耶はゆっくり庭へのガラス戸を開いて、裸足のまま砌石に降りた。綾子も少しあとを
そっとついていく。
高耶は、淡い月明かりに浮かぶ桜の古木へ近づいた。先ほど猪飼が触れていた大樹だ。
その枝々から、ふるふると雨のように、わずかな風にも落とされてくる白い珠…。
いや、それは、もう開くばかりになっていた桜のつぼみだった。
はらはらと涙のように、その下に立つ高耶に降りそそぐ。
(そうか…)
かお
木から離れる寸前の、猪飼の哀しげな表情は――。
(そうだったのか…)
猪飼は、まさに咲き誇る時を迎えようとしていたこの木の精気を搾り取ってしまったの
だ。――直江を救うために。
桜の木の涙のように…、しかし高耶を責めるよりは優しく撫でるように、白い珠はすべ
りおちてゆく。
いのち
(…また奪い取ってしまった…生命の骸なのに…)
高耶は幹に額を押しあてた。
ひいやりとした心地よさの中に、奪われはしても尽きはしない、と伝えてくる者の存在
を感じた。
"奪われる側"は、こんなにも優しい。情炎に身を灼いて、焦がれる者の名を胸の内で呼
ぶ夜叉をも、その腕に抱くように――。
――大丈夫…怖くない…。
弥生の真珠たちは、高耶を抱きしめる。深い優しい声を、一粒一粒がくりかえして。
やがて来る朝を前に。
了('99・12・9)
あとがき
きょーふの「主人公ねてるうちに問題全部片づいちゃった説明篇」でした。
また話してるだけ、でしたね…。勝手に終ってますし、闇センゴク。
とは言え、片づいてないことも山ほどありますし、別の色糸もちょっと混ぜこんでいますので、
一応全部終わった時は、ちゃんと一枚に織りあがるように…がんばるから、おつきあいください。
あっと、「たなからボタモチ(ちょっと違う…)の九郷。本当は八神を残しときたかったので考え
た案だったんですが、彼と猪飼の接点を思いつけず、やむなく九郷という人物(→霊)を出したの
でした。八神、好きなんだけど。可愛いし、転んでもタダでは起きないヤツのようだし。
もうひとつ。
「〜の真珠」とタイトルを決めた時「覇者の魔鏡」の母珠が真珠だと思っていたので、おお、題を拾って
話を作る、のパターンだ、と。でも不安があって読み返したら、数珠は真珠だけれど、母珠はどうも違
うらしい。大日如来、刻んであるし。困ったぞ、これは、と思ったとたん、別の"真珠"が浮かんだので、
えっさかほいさとでっちあげたのでした。こんなんばっかし。
しかし直江があの珠を持ってたといっても、荼毘に付されたんじゃ…。小太が持ってった(文字通り
火事場どろぼー)ってのはあんまりだし(第一どうやって取り返す?)、車に置いてたというのも…
(第一どーやって…。再生中に誰か取りに?)。
しょうがない。一緒に燃えて、そのカス(おい)がホネ(おいおい)にひっかかってて共に再生され
た――。後天的な傷はクローンには出ないから、療養中の直江が退屈で彫ったとか、大日如来…。
あ、でも直江はキズモノのままだった…。う〜ん。